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中宮寺

名称 中宮寺
住所 636-0111 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
拝観時間
拝観料金
URL

http://www3.pref.nara.jp/kankou/1136.htm

当寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方500メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和38年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当等は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼茶羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。

その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半蜘像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。

宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。

◆中宮寺本堂
高松宮妃殿下の御発願により吉田五十八先生が設計され、昭和43年5月落慶の御堂であります。当寺は伏見宮様より女王様御二方と後西天皇内親王様御一方を始め、有栖川宮より皇女御三方が門跡として法燈をお守り戴いております。又高松宮は有栖川宮祭祀をお継承になり、殊に高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮の最後の皇女であらせられます。このような高松宮と当寺との浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったらと御心痛遊ばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。以前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い南面にし、而も本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂になったのであります。桝組、募股等の組物を一切使わない簡素なつくりの中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、又池の廻りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、斑鳩の里にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております。

◆本尊菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)(国宝)
東洋美術における「考える像」として有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上欠かすことの出来ない作品であります。国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを数少ない「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価し、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に千三百余年の法燈を継ぐ当寺のこの像は、御本尊として永遠に吾等を見守って下さるでしょう。

◆天寿国曼荼羅繍帳(国宝)※展示繍帳は複製です
聖徳太子は推古天皇即位30年(622)御年48で箆去遊ばしました。御妃橘大郎女はいたくお嘆きになり、太子様を御慕いのあまり、宮中の釆女たちに命じ、太子様が往生なさっている天寿国という理想浄土のありさまを刺繍せしめられたのが、この天寿国曼荼羅であります。もとは繍帷二帳より成り、そこに四百字の銘文が刺繍されていて、その全文は『上宮聖徳法王帝説』という書の銘文に残っております。それによりますと、画者は東漢末賢・高麗加世溢・漢奴加巳利、監督は椋部秦久麻でした。その後、年の経つにつれて破損し、法隆寺の宝蔵に秘せられますが、鎌倉時代の当寺、中興信如比丘尼が発見し、修復されて、別に一帳の模本の繍帳をも製作されました。現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが貼り合わされて、一帳にまとめられています。この中の赤衣の像が、当時の服制に照らして太子様ではないかといわれています。図中には亀甲型が四個残り、一個に四字ずつ「部間人公」「千時多至」「皇前日啓」「仏是真玩」の文字をあらわし、『上宮聖徳法王帝説」に伝える銘文に合致しております。

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2

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