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大悲閣 千光寺

名称 大悲閣 千光寺
住所 616-0004 京都府京都市西京区嵐山中尾下町62
拝観時間
拝観料金
URL

http://daihikaku.jp/

正しくは、嵐山大悲閣千光寺(せんこうじ)と号する禅宗の寺である。
当寺は、慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立した寺院である。
了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開鑿(かいさく)し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたといわれている。
本堂には、了以の念持仏であった本尊の千手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。
境内には、了以の子、素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石がある。

嵐山渡月橋から大堰川の右岸を約1km上流に上りますと、大悲閣千光寺にあがる参道の石段が見えてきます。そして、その石段を登ると、嵐山中腹に位置する千光寺に至ります。山門を潜り鐘楼の脇を上がると展望台に出ます。山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺と言い、当初は天台宗、文化五年以降は黄檗宗となり、本尊は恵心僧都作と伝える千手観音です。千光寺は、もと清涼寺の西方中院にあって、後嵯峨天皇の祈願所でしたが長らく衰退していました。

慶長十一年(1606)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が同十九年に現在地へ移し、大悲閣を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山としました。了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に大?を迎えて再興したとき、寺は黄檗宗となりました。

※ 川の流れの方向(下流側)をみて右側が右岸、左側が左岸です。

◆由緒
大悲閣は禅宗寺院で、大堰川(保津川)の右岸を、渡月橋から溯って、約1kmの嵐山温泉から、さらにつづら折りの石段を登りつめた、山の中腹にあります。
角倉了以(1554-1614)が、河川開鑿工事に協力した人々の菩提を弔うため、嵯峨中院にあった、千光寺の名跡を移して、創建したものです。
角倉了以は大堰川、富士川、天竜川、高瀬川などの、河川開発工事を行い、また豊臣秀吉より、続いて徳川家康よりも朱印状を得て、海外貿易を行いました。
晩年は、この大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)7月、61歳で亡くなりました。
本尊の千手観世音菩薩は、恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられ、了以の念持仏でした。
 なお、大悲閣とは、観世音菩薩像を安置した仏堂を言いますが、特に、この千光寺の事です。
 了以の像は、法衣姿で石割斧を持ち、片膝を立てて太綱の上に座し、今も川の安全を見守っています。
 遠く比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、麓には、京都市街を一望する景色は、了以も愛し、皆さまにも四季折々に楽しんで頂ける、絶景といえましょう。
 また、了以の嫡子素庵(1571-1632)は、父に協力し、実務に従事、業績を挙げるかたわら、儒学者、芸術家としても活躍し、嵯峨本の製作者としても有名です。
 さらに、角倉一族のひとり吉田光由(1598-1672)は、わが国最初の算術書「塵劫記」を著し、その改訂版、類書等は明治時代まで続くベストセラーとなりました。
 この為、この千光寺は、そろばん上達の寺とも呼ばれてきました。最近では、数学、理系上達の寺としても有名です。

◆夢窓疎石国師の座禅石
夢窓疎石(むそうそせき)が座禅を組んだといわれる

◆桂川
桂川は、亀岡市中域から嵐山あたりまでは保津川(ほづがわ)、嵐山公園あたりは大堰川(おおいがわ)、嵐山を出ると桂川と名を変える。

京都府京都市西京区嵐山中尾下町62

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