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橘寺

名称 橘寺
住所 634-0142 奈良県高市郡明日香村橘532番地
拝観時間
拝観料金
URL

http://www3.pref.nara.jp/kankou/1147.htm

当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があり、その第四皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ注釈を加えられたのが三経義疏で、現在も保存されている。33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こり、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるよう太子に命ぜられた。

そして御殿を改造して造られたのが橘樹寺で、聖徳太子建立七ヶ大寺の一つに数えられた。当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め66棟の堂舎が建ち並んでいた。天武天皇9年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったのか。光明皇后より丈六の釈迦三尊、淳和天皇が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読及び法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏四九体、永暦二年(西暦1078)十月八日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころか。近衛天皇久安4年(西暦1148)5月15日雷火のため五重塔焼失。60年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、元興寺より四方仏を迎え奉ったなどの記録あり。後柏原天皇永正3年(西暦1506)、多武峯大衆により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまった。江戸時代は正堂、念仏堂共に大破し僧舎一棟のみと記されている。現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。

◆田道間守
日本書紀によると、11代垂仁天皇の時勅命を受けてトコヨの国へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守が、十年の長い間苦労してようやく秘薬を捜し求め、持ち帰ったところ、天皇は既にお亡くなりになっていた。このとき彼が持ち帰ったものを「トキジクノカグノコノミ」といい、この実を当地に蒔くとやがて芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝えられている。また彼は、黒砂糖をも持ち帰り橘と共に薬として用いたので、後に蜜柑・薬・菓子の祖神として崇め祭られるようになった。菓子屋に橘屋の屋号が多く用いられるのは、この縁によるものである。

◆二面石
飛鳥時代の石造物の一つで、太子殿の左の方にあり、人の心の善悪二相を表したものといわれている。

◆蓮華塚
勝鬘経講讃の時降った蓮の華を埋めたところで、大化改新の時これを一畝(三六坪・・約一〇〇㎡強)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚とも呼ばれている。

◆黒の駒
太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身といわれる。仏頭山麓の地蔵菩薩の傍らにその姿をとどめ、災難厄除のお守りになっている。

◆五重塔跡
本坊の門の前に土壇がある。五重塔跡で中心には大きい珍しい形をした心礎があり、直径約90cm、深さ10cmの柱の入る孔、その円孔の三方に半円形の孔(そえ柱孔)が掘ってあり、現存すれば約38m余りの五重塔が建っていたことになる。

◆往生院
阿弥陀三尊を本尊とする往生院は、太子の念仏精神を今日に生かさんとして、念仏写経研修道場として平成9年に再建され、多目的道場として活用されている。また、道場内の格天井には著名なる画家のご協力により華の天井画が二百余点奉納され、華の浄土の様相を呈している。(各種研修会、講演会などにご利用頂けます。事務所までお間い合わせ下さい。)

◆精進料理
当寺ではオリジナルの精進料理が予約申込によりご試食頂けます。但し十名以上で十日前までに申し込んで下さい。

奈良県高市郡明日香村橘532番地

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