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白毫寺

名称 白毫寺
住所 630-8302 奈良県奈良市白毫寺町392
拝観時間
拝観料金
URL

http://www3.pref.nara.jp/kankou/1120.htm

白毫寺は、奈良市東部の山並み、若草山・春日山に続き南に連なる高円山の西麓にある。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられが、当寺の草創については、他にも天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするものなど諸説あり定かではない。「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多くの寺を復興し、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当寺は一切経寺と呼ばれ、現在も4月8日に一切経法要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良に訪れるとされた。明応6年(1497)、古市・筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火・雷火で堂塔を失う憂き目を負っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持され繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。

現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来坐像をはじめ閻魔大王坐像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)に勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他を安置する。また御影堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ400年の五色椿(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋は参道を紅や白の萩の花が覆って、季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時をしのばせる。

◆阿弥陀如来坐像(重文 平安時代~鎌倉時代)(像高138センチ)
定朝様式の阿弥陀像で当寺の御本尊。桧材の寄木造で漆箔を施す。伏し目のもの静かな温顔と、穏やかな肉取りの体部、浅い彫り口の衣文などをもち、やや力強さに欠けるが、いかにも品よく仕上げられている。

◆地蔵菩薩立像(重文 鎌倉時代)(像高157センチ)
慈眼と温容に満ち、錫杖と宝珠をもって立つこの像は、当初の光背・台座まで完備する。桧材を用いた寄木造で、施された彩色は剥落も少く、切金もかなり残っている。鎌倉後期につくられた地蔵菩薩像の秀作である。

◆伝・文殊菩薩坐像(重文 平安時代)(像高102センチ)
大きい宝髪、張りのある顔、肉取りの厚い体と膝ぐみをもち、平安初期彫刻の特質をよくそなえた菩薩像。桧の一材で頭.体部から脇にかかる天衣まで巧妙に彫刻している。もとの多宝塔の本尊で、この寺で最古の仏像。

◆司命・司録像(重文 鎌倉時代)(像高132センチ)
閻魔王・太山王の春属。ともに虎の皮を敷いた椅子に腰をかける。司命は筆と木札をもち、上を見て口を固く閉じる。司録は書巻(欠失)を両手にもち、これを声高に読み上げるかのように口を大きく開く。両像とも寄木造で彩色と切金とが残っている。明応の火災には救出されたが、司録の首は後補されている。正元元年頃の康円一派の作としてその価値は高い。

◆興正菩薩叡尊坐像(重文 鎌倉時代)(像高73.9センチ)
戒律復興や貧民救済に活躍した西大寺叡尊は、白毫寺の中興の祖でもある。寄木造彩色像で、眉の長い特徴ある風貌で端然と坐す姿は晩年の叡尊をみごとに捉えており、肖像彫刻の優品である。

◆閻魔王坐像(重文 鎌倉時代)(像高118.5センチ)
元あった閻魔堂の本尊で、寄木造の彩色像。大きい冠と道服をつけ、笏を持って身構える。玉眼の目はことに鋭く、口をカッと開いて叱咤する。この迫真性に富んだ盆怒の形相は、礼拝者に畏怖の情を十分に与える。

◆太山王坐像(重文 鎌倉時代)(像高129センチ)
閻魔王と一対の作だが、明応6年(1497)兵火に遇い頭・体部と膝ぐみの前面が大きく焼けこげた。翌七年の修理で現状にもどった。体内に造像当初の墨書があり、正元元年(1259)大仏師法眼康円の作とわかる貴重像である。

奈良県奈良市白毫寺町392

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