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青蓮院門跡

名称 青蓮院門跡
住所 605-0035 京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1
拝観時間 9:00~17:00

受付終了 16:30
※春・秋にライトアップを開催しています。
拝観料金     一般 団体割引(30人以上)
大人  500円 450円
高校生 400円 350円
中学生 400円 300円
小人 同伴無料 200円
修学旅行生は別料金体系
URL

http://www.shorenin.com/

三千院、妙法院と並ぶ天台宗三門跡の一つで、天明の大火(1788)の際に仮の御所となったことから、粟田御所(あわたごしょ)とも呼ばれる。
最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊(しょうれんぼう)」に始まるとされ、平安時代末期の行玄(ぎょうげん)のときに三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が門主(住職)を務める「門跡寺院」となった。
歴代門主のうち、三代の慈円(じえん)は歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」の著者として有名で、十七代の尊円入道親王(そんえんにゅうどうしんのう)は和風と唐風を融合し青蓮院流(のちの御家(おいえ)流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。
境内全域が国の史跡に指定されたおり、粟田山(あわたやま)の山裾(すそ)を利用した庭園は、龍心池(りゅうしち)を中心とした優美な池泉(ちせん)回遊式庭園で、主庭は相阿弥(そうあみ)の、霧島の庭は小堀遠州こぼりえんしゅう)の作と伝えられている。また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞上人(しんらんしょうにん)のお手植えと伝わる巨大な五本の楠(くすのき)(京都市登録天然記念物)がある。
寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動(あおふどう)」の名で知られる「不動明王二童子(ふどうみょうおうにどうじ)画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚大日堂(だいにちどう)を有し、そこからの京都市街の眺めは格別である。 

◆由緒
天台宗の門跡寺で、代々入道親王か摂関家の子弟が継承して天台座主となった。法然を庇護し親鸞の師であつた慈圓(慈鎮和尚)(藤原忠通の子、1155~1225)や、御家流の書道を大成された尊圓親王(伏見天皇の皇子、1298~1356)、維新史上著名な青蓮院宮尊融親王即ち後の久邇宮朝彦親王(伏見宮邦家親王王子、1824~1891)は当院の門主である。後櫻町上皇は天明の皇居炎上後仮仙洞として当院を御使用になり、庭中の好文亭は御学問所となった。

明治元年10月明治天皇の始めての江戸行幸の時には、京都御所御出発後最初の御小休所が当院で、宸殿に玉座が設けられた。その後の変革期に宸殿大玄関附近は京都府立療病院・医学校にあてられ明治13年まで続いた。

尊融親王が各方面の志士と応接され、御住居であつた叢華殿、上記好文亭、住吉派の障壁画、室町江戸の庭園、内裏より移された江戸初期の四脚門、幾度かの災害を経ながら旧態を伝えようとしている建築群等を、門跡寺としての特殊な寺院の在り方を念頭に置いて御覧いただきたい。

◆史蹟青蓮院旧仮御所
青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都にある五つの門跡寺院を五ヶ室と呼んでいるその一つである。

日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山を開くにあたっては、山上に僧侶の住坊を幾つも造ったが、その一つの青蓮坊が青蓮院の起源である。比叡山の東塔の南谷即ち現在大講堂の南の崖下に駐車場用に整地された所がその故地である。

伝教大師から円仁(慈覚大師)、安恵、相応等延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であったと思われる。その第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりで、即ち行玄は門跡寺としての青蓮院の第一世、その皇子が第二世門主覚快法親王である。

山上の青蓮坊はそのまま青蓮院の山上御本坊と称されて室町時代迄は確実に維持されて居り、門主が山上の勤めの時の住坊となっていた。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族であるか五攝家の子弟に限られた。

当院は平安時代の末から鎌倉時代に及ぶ第三世門主慈圓(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)の時に最も栄えた。慈圓は天台座主を四度つとめてその宗風は日本仏教界を風靡し、皇室の尊信極めて篤く勅旨による修法を始め仏事に尽した功績は数限りないが、又日本人始めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として『拾玉集』を我々に示している。

台密の巨匠である反面、浄土宗の祖法然・真宗の祖親鸞を庇護し、法然の寂後時を経てその門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈圓が法然に与えた院内の二房の跡で、之が知恩院の起源となった。

親鸞は九歳の時に慈圓について当院で得度し、寂後院内の大谷(現在の知恩院の北門の傍の崇泰院の地)に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起りである。それ故本願寺の法主は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、又当院の脇門跡として門跡を号することが許された。

慈圓は後鳥羽上皇から托された朝仁親王(入道道覚親王)を所謂瀉瓶の弟子としてすべてを譲る考へであったが承久の乱が起って鎌倉幕府に阻まれ、寂後二十数年して漸く道覚親王は衆望を担って第六世門主となり天台座主となられた。

爾来青蓮院は入道親王入寺の寺であることを誇りとして明治に至った。中でも第十七世入道尊圓親王は伏見天皇の皇子のこととて書道に秀でられ、和風唐風を融合した日本独特の書風を樹立され、その後の歴代門主も皆尊圓親王の書風をよくして永く日本書道界に君臨した御家流の家元となった。

応仁の乱の兵火を免れず、徳川氏には豊臣氏減亡後今の知恩院の全域を取上げられたが、相阿弥の作と伝える龍心池を中心とする室町時代以来の庭園から粟田山将軍塚にわたる境内は今日まで保有され、徳川幕府も殿舎の造営には力を致して東福門院の旧殿を移して宸殿を造った。

後桜町上皇は天明の皇居炎上後青蓮院を仮御所と定められ、庭内の好文亭は御学問所として御用いになった。平成五年四月おしくも焼失したが平成七年十一月に完全復元修理された。多くの国宝重要文化財中、青不動明王画像は日本三不動の一つとして特に知られ、御宸翰、古文書、奈良時代より室町時代にわたる台密を主とする聖教を蔵している。

★不動明王は密教のほとけであるので、五色(青・黄・赤・白・黒)に配せられることがある。赤不動・黄不動・目黒不動・目白不動等はその例である。

その中にあって青色は方位に配せられゝば中央、五大に配せられると大日如来の三昧耶形である五輪塔婆の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心にあるのである。即ち不動明王の中の不動明王といふ地位を占める。

当院の青不動明王画像は誠にこの青不動明王の性格にふさわしい威厳と荘厳さを持ち、三不動の他の二作と比べても典型的な体裁を具備している。青不動明王の性格から云っても、亦本画像の優秀さから見ても、当院の青不動明王を如法に供養し奉る時の功徳の甚大なことは云はずして、明らかなことであるが、国宝中でも特に保存の為に厳しい条件がつけられているので、完全な複製の製作とそれを祀る青不動明王堂の建立の計画を進めている。

維新史上著名な青蓮院宮入道尊融親王は、孝明天皇の勅によつて復飾後は中川宮と称せられ、新後久邇宮の称号を賜り神宮祭主となられた朝彦親王で、皇太后陛下、東伏見慈治現門主等の兄弟の祖父である。因に門主は信州善光寺の名誉貫主を兼ねている。

◆青蓮院庭園
青蓮院庭園は粟田山の山裾を擁して造られ幽邃雅趣深く、室町時代に相阿弥の作るところと伝えている。また叢華殿の東面の庭は霧島の庭と称して、好文亭裏側の山裾斜面から一面に霧島つつじを植え、その間に梔子・馬酔木等を点植して色どりを添えている。この庭を小堀遠州の作と伝える。

又好文亭の一廓は自ら別の雰囲気を作っているが、之を大森有斐の作という。大森有斐については年代も経歴も、亦他に作品があるかないかも知られていない。いづれも確証はないが、粟田山の美しい山麓の環境を巧に利用して作られた名園の名にふさわしい庭園である。

現況からは室町時代の作庭手法を見ることはできないが、江戸時代の特に遠州作と称されている庭園の作風に好みが共通した点は認められる。青蓮院が皇室に関係の深い由緒ある寺院であるだけに、その優雅なたたずまいにふさわしく庭園全体の構成が格調の高い優雅さで包まれている。

この庭園の主庭は小御所と客殿並びに好文亭の三建物で囲まれた池を中心とした部分の庭である。池の対岸南に粟田山の山裾を利用して高く石組した滝口を中心とし、池の東側には土佐派の絵画或は宗達の絵に見られるような、やわらかな曲線を画いた築山が設けられて、その北側には好文亭が建っていた。

池の南は池汀が小御所の高欄の下に入り込むように接して南へ山裾と建物の間を細長く延びている。小御所に近く池のやや狭まった部分に花崗岩の切石二枚で作られた半円形の反りの美しい石橋が架けられている。この石橋を跨龍橋と呼び、池を龍心池と名付け、滝口を洗心滝という。これらの配置は誠に妙を得、意をこらしたものである。

龍心池の中央には二千貫に近い大石を池水に浮かぶが如くに据えてある。極めて名石であって、あたかも沐浴する龍の背の水面にみゆるが如き感じである。滝口に相対して池の西岸には一枚の大きな青石の拝礼石が据えられている。

こうしたこの庭の形態を観察すると、平安時代から日本庭園の形態の主流をなして来たところの築山泉水庭の形式を踏襲しているが、滝口の作られる山裾を利用した築山の他に、池の岬となる部分がそのまゝ高くいま一つの築山となっており、池の中央に中島に代って大きな庭石を据えているのは、これまでの定石を破った形態の庭となって面白い趣向である。しかしこれらのことが少しも奇をねらった嫌味をともなっておらず、品格ある調和を保っていることは、この庭の作者が優れた手腕の持ち主であることをよく物語っている。

滝口上から樹木は山裾斜面を一面に覆うが如く繁った多数の山紅葉を交ぜ、四季を通じて見事な景観を見せている。

池汀および山に組まれた庭石は、京都近郊の山石と紀州の青石を主として用い、美しい皺と色彩感のある比較的華やかな石が選ばれ、石組の手法もやわらかで絵画的である。

小御所の建物近く渡廊下に面して巨大な一文字の白然石の手水鉢が置かれて、力強い見事な役石と景石が組まれて雄揮な気風がみなぎっている。この手水鉢は伝えによれば豊臣秀吉の寄進になる「一文字手水鉢」といわれ著名である。{以上造園学の権威中根近作氏の文による} 

霧島の庭には同じく秀吉の寄進と伝える「神輿形燈籠」があるが、この方は少し時代の下るものゝ様である。

小御所と池を隔てた所にある「立田山の楓」、華頂殿の東南角に植えられた「宮城野の萩」は、共に西行法師が門主慈圓大僧正に携へ来って贈ったものと伝えられる。鎌倉時代の古図にも特に図示されて、古来有名であった。勿論幾度となく植え継がれたであろうが、四十年程前萩が枯れた時に、仙台市の方が現在の宮城野の萩を送られ、又数代前の門主が信州の伊那の光前寺へ株分けされたものがあることを知って、その一株を譲り受けて植栽したところ全く同一種であった。年々夏から秋にかけて二回可憐な花を咲かせている。普通の萩とは違ふ種類のものである。

京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1

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