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二尊院

名称 二尊院
住所 616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
拝観時間 9:00~16:30
拝観料金       一般 団体割引 大人    500円 300円   大学生   500円 300円   高校生   500円 300円   中学生   500円 300円  小学生以下  0円  0円 30人以上団体割引
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本尊に釈迦・阿弥陀の二如来(重文)をまつり、正しくは二尊教院華台寺。天台宗。
承和年間(834-48)慈覚大師円仁が開基。応仁・文明の乱のあと法然の弟子湛空が再興。
総門は伏見城の遺構と伝える薬医門。広い参道は「紅葉の馬場」と呼ばれる。
建立:834-847年(平安時代)

◆由緒
「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼びますが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」といい、明治以降天台宗に属しております。嵯峨天皇(在位809~823)の勅願により慈覚大師が承和年間(834~847)に開山したといわれております。
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる「発遣(はっけん)の釈迦」といい、阿弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土よりお迎えくださいます。これを「来迎の阿弥陀」といいます。共に鎌倉時代の春日仏師作(重要文化財)と伝わっております。この思想は唐の時代中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれたのです。その為に現在は法然上人25霊場17番札所となっています。当寺は、明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、御所でのすべての仏事を司り公家方との交流も盛んでした。
応仁の乱(1467~1477)によって諸堂が全焼しましたが、現本堂、唐門(勅使門)は約30年後に再建されました。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、唐門「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は、このとき下賜されたものです。現在でも「二条家」「三条家」・「四条家」・香道の創始者である「三条西家」又、平成3年に行幸啓をいただいた今上天皇の姉君鷹司和子様「鷹司家」の菩提寺でもあります。
又、本堂(京都市指定文化財)は特に京都御所の紫辰殿を模して内陣も紫辰殿のお内仏と同様に造られました。また、外陣の床は「うぐいす張り」となっています。
また、総門は豪商角倉了以が、伏見城の「薬医門」を移築したもので、参道は紅葉の馬場といわれ秋には紅葉が美しい所です。
梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造でしたが、平成4年(1992)に再鋳し「しあわせの鐘」と名づけ、第一に自分が生かされている幸せを祈願し、第二に生きとし生けるものに感謝し、第三に世界人類の幸せのためにと三つ撞いて、それぞれに祈願していただいております。

◆小倉餡発祥の由来
日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは京都に於いて平安京ができて間もなくの820年頃のことであります
当時 京のこのあたり小倉の里に亀の子せんべいを作っている和三郎という人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し それに御所から下賜された砂糖を加え 煮つめて餡を作りました これを毎年御所に献上されました
こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので一般の庶民の口には入りませんでしたが この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され 江戸時代には茶道の菓子となり 又一方では祝飯として ハレの料理にも加えられるようになりました
更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました
和三郎は承和七年二月二日(840年)に亡くなりましたが その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中宇愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て 朝廷の允許を得て 屋号が亀屋和泉でありましたので 和泉明神としてまつられるようになりました
その後 年月を経て明神の社は兵火に焼かれ 子孫も絶えて 只古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています

京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27

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