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京都御所

名称 京都御所
住所 602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3
拝観時間
拝観料金 無料(事前予約制)
URL http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html

京都御苑の中央北部にある。(東西約250メートル、南北約450メートルの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政2)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模しております。
御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがあります。
小御所前には大きな池を配した優雅な庭園があります。

◆由緒
桓武天皇は、延暦3年(784)に都を奈良の平城京から京都の長岡京へ移され、同13年(794)、さらに平安京に遷都された。平安京は、現在の京都市街の中心地にあたるところに造営され、南北約5.3km、東西約4.5kmの方形で、東西の中央を南北に通ずる朱雀大路(現在の千本通)によって左京(東方)と右京(西方)に二分、それぞれ大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。そして、都の北端にあたる一条大路に内接して南北約1.4km、東西約1.2kmの大内裏(宮城)があり、政務や儀式を行う朝堂院、豊楽院、太政官その他の官庁が置かれていた。朝堂院は大内裏の南部中央に朱雀大路に南面し、院内の北部には正庁である大極殿(現在の千本丸太町あたり)が建っていた。
 ちなみに、今の平安神宮の社殿は当時の大極殿を縮小して復元したものである。皇居は内裏と呼ばれ、天皇のお住まいであった。大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東に位置し、南北300m、東西220m余りの地域を占めていた。正殿である紫辰殿のほか、清涼殿、弘徴殿、麗貴殿、飛香舎など王朝文学でなじみの深い宮中殿舎が建ち並んでいた。遷都から166年を経た天徳4年(960)に内裏は初めて火災に遭い、時の村上天皇は冷泉院(後院)を仮皇居とし、内裏は直ちに再建された。しかし、その後も内裏は度々火災による焼失と再建を繰り返し、内裏完成までの閤は貴族の邸宅などを仮皇居に充てられるようになった。いつしかこれを里内裏と呼ぶようになり、平安時代の末期には大内裏にある内裏は余り使用されず、里内裏を日常の皇居とされるようになった。この間、大内裏の大極殿等も再三火災を起こし、相次ぐ戦乱等のために再建されることもなく、ついには内裏も同様の経過をたどって、全くの廃墟と化することとなった。
 現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれる里内裏の一つで、平安内裏の廃滅と前後して用いられることが多くなり、元弘元年(1331)光厳天皇がここに即位されてから、明治2年(1869)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。しかし、この間幾度となく火災と再建を繰り返し、天明8年(1788)再建の際、幕府は老中松平定信を総奉行とし、当時の故実家裏松固禅らの考証によって紫辰殿を始め主な殿舎の意匠を平安の古制に復元し、また飛香舎などの失われていた殿舎の一部を復興するなど、古制への復帰を図り新内裏は寛政2年(1790)に完成した。その後、この殿舎も嘉永7年(1854)に焼失したがその再建に当たって幕府は、寛政時の内裏の計画をほとんどそのまま踏襲し、翌安政2年(1855)に異例の速さをもって再建を果たし、今日に至っている。

京都御所は、築地塀で囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万m2である。南に白砂敷きの南庭を構えた紫辰殿が高くそびえ立ち、その北西に清涼殿、北東に小御所、御学問所がいずれも束に面して建っている。
 小御所と御学問所の前は、白砂敷きで空間を造りだし、雄大な御池庭を配している。その北側にある白壁塀の門をくぐると御常御殿、さらに北に、孝明天皇の御書見の間として建てられた迎春、その廊下伝いに熱暑の夏を過ごすための御涼所、吹き抜けの雅趣豊かな渡り廊下に導かれる茶室聴雪と続く。最北部は、小塀に囲まれて皇后宮の常御殿と女御などの住まいであった飛香舎がある。飛香合はその南庭に藤が植えられているため藤壷ともいわれている。寝殿造り、書院造り、数寄屋風など、歴史上代表的な建築様式を調和させ凝縮している京都御所は、文化財としても高い価値を有している。京都大宮御所、仙洞御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。

京都府京都市上京区京都御苑3

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