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十輪寺(なりひら寺)

名称 十輪寺
住所 610-1133 京都府京都市西京区大原野小塩町481
拝観時間
拝観料金
URL http://narihiratera.seesaa.net/

小塩山(おしおざん)と号する天台宗の寺院である。
寺伝によれば、嘉祥3年(850)染殿(そめどの)皇后(藤原明子(ふじわらのあきらけいこ))が、安産祈願のため、比叡山の恵亮(えりょう)和尚を開山に請じて創建したものと伝えられている。
以後、勅願所として栄えたが、応仁の兵火により堂宇は焼亡してしまった。
その後、江戸時代の寛文年間(1661~73)に、公卿の藤原定好(さだよし)により再興され、さらに、藤原常雅(つねまさ)により堂宇が整備され現在に至っている。
鳳輦形(ほうれんがた)をした本堂には、染殿皇后の安産祈願に霊験のあったといわれている本尊の地蔵菩薩(腹帯地蔵)及び、花山天皇が西国巡礼に背負ったと伝える十一面観音(禅衣(おいずる)観音)を安置している。
なお、当寺には、平安時代の六歌仙の一人である在原業平(ありわらなりひら)が、塩焼をした塩竈の跡や業平の墓と伝える宝篋印塔がある。
また、毎年5月28日には、業平忌三弦法要が営まれる。

◆由緒
嘉祥三年(850)文徳天皇の御后染殿皇后(藤原明子)の世継誕生を祈願し、めでたく皇子御降誕、後の清和天皇になられたことから文徳天皇勅願所となる。その後藤原北家(花山院家)が帰依され、一統の菩提寺とされた。

◆御本尊
伝教大師御作の延命地蔵菩薩である。等身大木像の坐像であらせられ、その御腹に巻かれた腹帯で染殿皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊と称し、今も子授や安産を願う婦人達の厚い信仰をあつめている。秘仏で年一回8月23日が御開帳日である。

◆庭園(三方普感の庭)
寛延三年(1750)、右大臣藤原常雅公が本堂を再興した時に作られたもので、高廊下、茶室、業平御殿の三か所から場所を変え、見る人に様々な想いを感じさせるいわば”心の庭”である。

◆襖絵
廃仏毀釈によって失われたが、大阪在住の黒田正夕画伯によって見事に復元された。三十二面にわたる豪華絢燗たる極彩色の王朝絵巻である。

◆菩薩面
作者・年代は不詳。明治の初めに重要美術品の指定を受け、現在、京都国立博物館にて保管されている。

◆お守り
縁結び(恋愛・結婚成就)
子授け
安産(腹帯授与〕
厄除け・開運
延命

◆草分観世音
花山法皇(在位985~991)が西国三十三番札所を再興された時、背に負われた観世音を当寺に納めたといわれ、おいづる観音ともよばれる。西国三十三番霊場詣りの者は一番初めに詣らねばならぬ観世音とされ、法皇の御手判も寺宝である。

◆行事
二月三日(節分・竹願千巻心経)
五月二十八目(業平忌三弦法要)
八月二十三日(御本尊御開帳)
十一月二十三日(塩竈清祭)

大原や

小塩の山も

けふこそは

神代のことも

思ひ出づらめ

(在原業平)

◆本堂
創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失し、現存は寛延三年(1750)の再建である。屋根は鳳輦形という御輿を型どった非常に珍らしいものであり、内部天井の彫刻も独特の意匠が施されている。文化財指定。

◆鐘楼

寛文六年(1666)十月頃の建立で、同様に文化財指定。

◆在原業平朝臣塩竈之由来
業平朝臣晩年当寺に閑居されここに塩竈を築き難波の海水を運んで塩焼く風情を楽しまれたと云う。

想い人であった二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣される時、ここで紫の煙を立ち上らせて想いを託したと伝えられている。

中世以後業平信仰が生じて、謡曲「かきつばた」には歌舞の神とされているところから塩竈を清めて煙を上げ、それに当たると良縁成就、芸事上達とぼけ封じ中風除け等々を願うようになった。この跡は地形は原型のままであるが塩竈は数十年前に古事に因んで復元したものである。

毎年11月23日「塩竈清めの祭」が行われる。

法要は当山古来の秘法、密教加持で紅葉を焚き塩で封ずる念法である。

◆三方普感庭由来
寛延三年(1750)右大臣藤原常雅公が本堂を御再興された時に造られた庭で、三方とは、高廊下(南側)、茶室(北側)、業平御殿(東側)である。普感とは、仏の遍万している大宇宙を感ずる、という意味である。

まず高廊下から見下すと、雲海となって見える。即ち高廊下を天上界と想定し、自分が天人となったつもりでこれを感ずるのである。次に茶室から見ると、小塩山となって見える。その昔の業平の塩焼の風情を偲び、二條后との情熱の恋を想うもので、人間世界の現実感を感ずる処である。

最後に業平御殿に到って海底の荘厳微妙なる極楽浄土の世界を感じとるというのである。大きな3個の石は過去、現在、未来を表現するもので、この小さな庭に大宇宙を観ずるということはここに由来する。

又、部屋の中から、かつて公家達がそうして眺めたように、横たわって手枕をして見ると、又別の世界が開けるといわれている。

江戸時代幕府に圧せられて、冠位だけは高かったが権力にも財力にも乏しかった藤原の公家達は、豪華な庭を造るには及ばなかった。その為、このようなこじんまりした空間の中に広大なものを眺めようとして、この三方を考案したという。場所を変え、角度を変え、想いを変えて鑑賞しようとしたことで、眼でみるものから心で観ずる抽象風なものに転じていったのである。他に類をみないこの庭園の特色である。

京都府京都市西京区大原野小塩町481

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