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愛宕念仏寺

名称 愛宕念仏寺
住所 616-8439 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2?5
拝観時間 8:00~17:00
拝観料金 拝観料300円 点字パンフレットあり
URL http://www.otagiji.com/

天台宗。稱徳天皇開基。もとは東山の地に奈良時代に建てられた古刹。
平安初期に鴨川の洪水で堂宇が流失。天台の僧「千観内供」が再興し,等覚山愛宕院と号し、比叡山の末寺となる。
本堂は鎌倉中期の建立で重文。大正時代に奥嵯峨の地に移築された。
内部の天井は繊細な小組格天井で、さらに本尊の位置を二重おりあげ格天井にするなど、他では見られない鎌倉様式の美しい曲線を今にとどめている。
本尊は「厄除け千手観音」。
地蔵堂には、霊験あらたかな火之要慎のお札で知られるあたご本地仏「火除地蔵菩薩」が祭られている。
境内には参拝者の手によって彫られた、1,200躰の石造の羅漢さんが表情豊かに並び、訪れる人の心を和ませてくれています。建立:建立奈良時代、再興延喜時代・毎月24日に法要と住職の法話がある。

当山は寺伝によりますと、聖徳太子の発願によって、愛宕郡(現在の京都市内)に愛宕寺を建立されたとあります。また、江戸期の資料には稱徳(しょうとく)天皇(765~769)が開基とあることなどから、建立は奈良時代以前に建てられた古刹であります。

平安朝の初め、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、延喜の初め鴨川の洪水で堂宇が流失しました。この名刹の再興を発願された人皇60代醍醐天皇は、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師千観内供(あじゃりでんとうだいほつしせんかんないぐ:918~984、内供とは皇居に参内を許される僧位)に命じて七堂伽藍の大寺を再興させ、等覚山愛宕院(とうかくざんおたぎいん)といい爾来(じらい)、天台宗比叡山の末寺になりました。

千観は、中納言橘頼顕卿(ちゅうなごんたちばなよりあききよう)の子として生まれました。伝記によりますと、両親は子なきを悲しみ清水寺本尊の千手観音に昼夜参籠して祈願したところ、ある夜、母は観音から蓮華一茎を授かる夢をみて懐妊したとあります。このことから、千手観音の千と観の二字をいただき、幼名を千観丸といいました。

千観は12才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕蜜(けんみつ)の奥旨を修めました。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。

等学山と号し、天台宗延暦寺派に属する。寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建といわれ、その後延喜11年(911)醍醐天皇の勅願により、比叡山の僧、千観阿闍梨によって中興されたと伝えられている。

当初は、東山区松原通大和大路東射弓矢町の地にあったが、大正11年(1922)にこの地に移築された。

本堂(重要文化財)は、方5間、単層、入母屋造で、度々移築され、補修を加えられているが、鎌倉時代中期の和様建築の代表的遺構である。堂内には、本尊十一面千手観音像や二十八部衆群像などを安置するが、特に、木造千観内供坐像(重要文化財)は、口を開いて念仏唱名する千観の姿をあらわした、鎌倉時代の肖像彫刻の逸品である。また、地蔵堂には、愛宕山の本地仏の火除け地蔵菩薩坐像を安置している。

境内には、永正9年(1512)の造刻銘のある石塔婆をはじめ、1200体に及ぶ羅漢像が建ち並んでいる。

◆由緒
当山は称徳天皇(764~770)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されました。

平安朝の初めには、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興されました。これより天台宗比叡山の末寺となり等覚山愛宕院と号しました。

千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれました。両親は信仰の厚かった千手観音にあやかり千と観の二字をいただき、幼名を千観丸と名づけました。

 千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めました。内供とは皇居に参内を許される僧位をいいます。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。

今に伝わる千観内供像は、口を開け念仏を唱えている姿に造られており、鎌倉時代の彩色寄せ木造りの坐像で肖像彫刻として優れていることから国指定の重要文化財になっています。

当山は、もと東山の地、松原通り弓矢町にありましたが、大正11年堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係から、三ケ年をかけて当地に移築されました。

平安時代の本堂は後に兵火にあいましたので、再び鎌倉中期に建てられ現在に続いています。方五間、単層入母屋造り、本瓦茸の簡素な和様建築です。

内部の天井は、繊細な小組格天井でさらに本尊の位置を二重折り上げ格天井にするなど、他にみられない構造であり、また須弥壇の格狭間にも鎌倉様式の美しい曲線をとどめていることから、国指定の重要文化財となっています。

千観は当寺再興の勅命を受けたとき、堂宇の建立に先立ち、まず本尊から造るべきだと考えその本尊に女性三十三才の七難九厄といわれる大厄から守護してくれる法力を加えたいと、一刀三十三礼して千手観音を彫り上げたとされています。

今も厄除けの千手観音として厚い信仰を集めています。

地蔵堂には平安初期に造られた火除け地蔵菩薩坐像が祭られています。これは、火防の神として信仰されているあたご山の本地仏が地蔵菩薩であることから、京の都を火災から守るために本像が造られました。古来火難除けとしてその霊験あらたかな「火之要慎」のお札が今に伝えられています。

仁王門には鎌倉初期に造られた仁王像が祭られています。この期のものとしては、京都市内では最も古く優れたものですから、わが国の彫刻史上にも貴重な存在となっています。

この仁王門は江戸中期のものですが、昭和25年の台風で破損大となりましたので、昭和56年、解体復元修理を行ないました。この時寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願しました。十年後、その数は千二百躰となり、平成3年11月に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。表情豊かに並ぶ羅漢さんが訪れる人々の心を和ませてくれます。

京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5

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