鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は康平6年(1063)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り源氏の氏神として由比ケ浜辺にお祀りしたのが始めです。  その後、頼朝公は鎌倉に入るや直ちに神意を伺って現在の地に八幡宮を移し祀り、建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整えました。 鎌倉は、このころすでに事実上、京都と並んで政治文化の中心となっており、頼朝公は関東の総鎮守として崇敬を寄せました。以後、国家鎮護の神として多くの人々の崇敬を集め、全国津々浦々にお祀りされ、広く国民から尊崇されるようになりました。 御本殿は文政11年(1828)11代将軍徳川家斉公の造営で代表的な江戸建築です。又、2代将軍徳川秀忠公が修復した若宮とあわせ国の重要文化財に指定されております。 境内には源平池を始め、静御前で知られる舞殿。3代将軍源実朝公があやめられた場所と伝えられるところには、大銀杏が樹齢千年の貫禄とともに八百年の長い歴史を伝えております。 表参道である段葛、若宮大路から眺める社殿は漆の朱と山の緑と空の青が見事に調和して、その美しさには驚嘆するばかりです。

高徳院

鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252(建長4)年から10年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。 制作には、僧浄光が勧進した浄財があてられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右衛門の名を記す史料もあるが、原型作者も含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、1334(建武元)年と1369(応安2)年に大風で損壊したらしい。15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。 国宝鎌倉大仏 この大仏像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右ェ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶安二年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ 仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35年、36年(1960~61)の修理では、前傾している頭部を支える頚部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。

長谷寺

長谷寺には次のような伝説がある。養老5年(721)徳道上人が一本の楠の大木で二体の十一面観音を造った。木の本で造った尊像を大和の長谷寺にお祀りし、木の末で造った尊像は縁のある地に出現し、人々を救ってくださいと祈って海に流された。その16年後、天平8年(736)6月18日夜、相模国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたという。その後、尊像は御本尊として鎌倉のこの地に移され、徳道上人を招いて寺を開いたのが、長谷寺の始まりといわれている。 また、康永元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し、明徳3年(1392)には足利義満が光背を造って納めたといわれる。現存する資料(宝物舘に展示中)から13世紀半ば(鎌倉時代)には長谷寺が栄えていたことを伺い知ることができる。 ◆観音堂(かんのんどう) 御本尊は十一面観世音菩薩。高さ9.18メートルで、歴史のある木造彫刻の観音像としては日本最大で「長谷観音」の名で知られている。十一面観音は頭上に十一の面をもち、前・左・右各三面、後・項上の各一面でそれぞれ表情がちがい、いろいろな人の願いを聞き救うことを表わしている。長谷観音は、一般の十一面観音と異なり、右手に錫杖、左手に蓮華を差した華瓶を持つ独特な姿で、長谷寺系と呼ばれている。地蔵菩薩と観音菩薩の力を兼ね備えた仏さまとして熱心な信仰者が多く、坂東三十三ヶ所観音霊場の第4番札所として古くから知られている。 【御詠歌】 長谷寺へまいりて 沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波 ◆阿弥陀堂(あみだどう) 御本尊は阿弥陀如来。高さ2.8メートル。源頼朝が42歳の厄除けのために建立し、もとは長谷村の誓願寺に安置されていたが、元禄初年ごろ長谷寺へ移されたと伝えられる。俗に「厄除け阿弥陀」といわれ、鎌倉六阿弥陀の一つとなっている。 ◆地蔵堂(じぞうどう) 地蔵菩薩は、大地の恵みのように偉大な力を持つ仏さまといわれる。地蔵堂の両側には不幸にしてこの世に生まれるこができなかった子供達の供養のために、小さなお地蔵様がそなえられている。 ◆大黒堂(だいこくどう) 御本尊の大黒天は応永19年(1412)室町時代の作で、神祭川県最古の大黒天像であるが、現在は宝物館に安置されている。代わっで「出世開運授け大黒天」が祀られており、江の島・鎌倉七福神巡りの一つとなっている。 ◆弁天堂(べんてんどう) 長谷寺の弁財天は、八臂の小さい像で、放生池のそばの弁天堂に祀られている。言い伝えによれば弘法大師が霊感によりおこもりし自ら刻んだといわれており、弁天堂の裏には大師がおこもりした弁天窟がある。 ◆経蔵(きょうぞう) 経蔵には輪蔵と呼ばれる回転式書架があり、寺院にとって大切な経典が納められている。この輪蔵を一回転することにより経典を読むのと同じ功徳があるといわれる。

円覚寺

わが国はおおよそ700年前、文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲という空前の国難を迎えた。 時の執権(しっけん)北条時宗公はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、中国から招いた無学祖元(むがくそげん)(仏光国師)を師として、日夜参禅に励んでいた。 国を挙げてこの難敵に当たり、蒙古の大軍を撃退した時宗は、文永・弘安両役に殉じた彼此(ひし)両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師仏光国師への報恩の念から円覚寺の建立を発願した。 「円覚」の寺号は寺地選定の後、この地から石櫃(せきひつ)に入った円覚経を掘り出したことによるといわれている。 開山の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち)(那須雲巌寺)、夢窓疎石(むそうそせき)(天龍寺)と次第し、世に「仏光派」と称された。殊に夢窓は南北朝「七朝の帝師」といわれ、その門流は室町時代にわが国禅界の中心的勢力を形成した。 数度の大火に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期に中興の誠拙和尚が出て、伽藍を復興し、現今の円覚寺の基礎を固め、修行者に対して峻厳をもってし、宗風の刷新を図った。 明治には今北洪川・釈宗演の師弟のもとに雲衲(うんのう)や居士が参禅し、関東禅界の中心となった。 居士林における学生坐禅会は古い歴史を誇り、秀れた人材を打ち出した。 首都圏各地からの交通の便に恵まれ、静かな境致と相俟って、各種の坐禅会・夏期講座など多くの人々に親しまれ。「心の寺・円覚寺」と呼ばれ、訪れる人々に深い心の安らぎを与えている。 山内に十八ケ寺の塔頭(支院)があり、近末には浄智寺・東経寺・瑞泉寺がある。 ◆由緒 当山は、臨済宗円覚寺派の大本山にして弘安五年(1282)の開創。開山は中国(宋)より渡来の仏光国師無学祖元。開基は鎌倉暮府の執権北条時宗公。国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来朝。初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。 時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うために当山を建立した。 国師の流派を世に仏光派と称し、弟子に仏国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山の学僧の主流となった。 江戸時代やや衰微していたが、江戸末期に中興誠拙禅師が出、明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師出世され再び関東禅界の中心となり、禅風を門外に宣揚した。 ◆山門 天明三年(1783年)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。楼上に観世音菩薩・羅漢が安置されている。「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆。円覚の寺号はこの地中より「円覚経」が出たことに由来する。 ◆仏殿 本尊は宝冠釈迦如来。昭和三十九年に再建された。天井に前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある。大光明宝殿。 ◆選仏場 仏を選び出す堂宇のことで、元の坐禅道場。1699年に建立。 ◆居士林 禅を志す在家のための坐禅道場、もと牛込にあった柳生流の剣道場を、昭和三年柳生徹心居士より寄進され移築した。 ◆方丈 「方丈」の名は、インドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来する。本来は住職の居間であるが、多くの宗教行事がここで行われる。 ◆百観音 江戸時代、拙叟尊者が百体の観音石像を奉安し、洪川老師の明治時代に整備され、震災後も一山をあげて復興につとめた。元は塔頭松嶺院の地内にあったが、今回方丈の庭園に移された。 ◆舎利殿(国宝) 源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇。鎌倉時代に中国から伝えられた「唐(から)様式」を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定されている。 ◆開基廟 開基北条時宗のみたまや。堂内に時宗・貞時・高時の尊像が安置されている。 ◆白鹿洞 当山の落慶開堂の日、開山国師の法莚に列するために、この洞中より一群の白鹿が現れたという。この奇瑞によって当寺の山号を「瑞鹿山」という。 ◆黄梅院 時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が夢窓国師の塔所として建立した。室町時代に盛んであり、古文書なども多い。 ◆洪鐘(国宝) 1301年北条貞時が国家の安泰を祈って寄進。鎌倉時代の代表的な梵鐘である。

明月院

明月庵の創建は今から830年前、永暦元年(1160)にはじまる。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤計部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部太夫山ノ内経俊によって創建。その後、康元元年(1256)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立(現在、明月院西北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は30才で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長3年(1263)11月22日、37才で卒去。のちに北条時宗(時頼の子)が、最明寺を前身として「福厳山禅興仰聖禅寺」を再興。開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の位地にあった密室守厳禅師。康暦2年(1380)、時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興を命じ、伽藍を完備、寺域を広大にし、支院を配置させた。足利三代将軍義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。明月庵は「明月院」とあらためられ、支院の首位におく。禅興寺は明治初年廃寺となり、「明月院」のみを残し今日に至る。 ◆開山堂(宗猷堂 そうゆうどう) このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂を後に開山堂としたものである。 堂内中央には建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の五代目の法孫で当院開山密室守厳禅師(1390年6月9日示寂)の木像、向かって左に最明寺・禅興寺、当院の歴代住持の位牌が祀られている ◆明月院やぐら(羅漢洞) 「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。 壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。 このやぐらは、もともと、永暦元年(1160年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。 上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である。

建長寺

禅宗では南宋の制度に従って鎌倉・京都に五山制度を設けた。 建長寺を第一位、円覚寺を第二位、寿福寺を第三位、浄智寺を第四位、浄妙寺を第五位とする現在の序列は1386年に定められた。 臨済宗の教えは「無位の真人(むにんのしんにん)」の言葉によって語られる。「真実の自己」の意味で、師弟間で行われる激しい禅問答、公案(こうあん)や座禅は、真実の自己へ導くための行である。 禅宗寺院は建物の配置にも特徴がある。天台宗や真言宗の密教系の寺院は山に建立されたために、地形に合わせて建物がバラバラに配置されているが、禅宗では山門、仏殿、法堂などの主要な建物を縦に直列させている。 なお、禅宗寺院では大門を総門と呼び、中門を山門または三門という。総門より三門の方が大きな造りで、多くの門の中で最も格式が高い二重門である。三門とは、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三界の解脱(げだつ)門を指し、迷いからの解放を目指す者がくぐる門である。 ◆由緒 建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の大本山です。 今から約750年前の建長5年(1253)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227~63)が建立したわが国最初の禅寺です。 建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(1213~78)は、中国の高僧無明慧性(むみょうえしょう)に学び、寛元4年(1246)33歳の時に来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に乞われて建長寺に迎えられました。蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅風をそのまま導入し、一時は千人を超える修行僧を指導しました。その教えは、現在国宝として寺に残る自筆の「法語規則」に見ることができます。 本来の自分を失えば、すべての事柄も見失ってしまう。こころの真髄を見つけれは、人生の道もみえてくる。 ◆『法語規則』要旨 蘭渓道降はその後、京都の建仁寺等にも移り、弘安2年(1278)に再び、建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜りました。これは日本で最初の禅帥号です。 北条時頼は、建長寺を建立した後も、大覚禅師や、二代目住職兀菴普寧(ごったんふねい)に師事し、禅を深く信仰しました。また、時の権力者として建長寺を経済的にも支え、全国に禅宗を広め、自らも出家して法名を覚了房道崇(がくりょうぼうどうすう)といいました。 ◆伽藍 創建当時の伽藍配置は、中国宋時代の禅林風を摸したもので、総門・三門・仏殿・法堂などの主要な7つの建物がほぼ一直線にならび、49の塔頭(小寺院)を有するという大陸的で荘厳なものでした。その後、14、15世紀に起こった数度の火災により、その多くが焼失してしまいました。 江戸時代に入り、高名な沢庵和尚の進言などによって、ようやく再建・復興し、現在の主要な建物の他に搭頭十余院を有する壮観をなしています。 ◆総門 寺の入口の門で、天明3年(1783)に建立され、京都の槃舟三昧院(はんしゅうさんまいいん)より昭和18年に移築され、別名を巨福門といいます。額の「巨福山」は建長寺第十代住職一山一寧(いちさんいちねい)の筆によるもので、巨の字に筆勢による一点を加え巨とし、百貫の価をそえたものといい、世に百貫点といいます。 ◆三門 (県重要文化財) 三解脱門の略で、楼上に五百羅漢などを安置しその下を通ると心が清浄になるといわれます。安永4年(1775)に、当時の住職万拙(ばんせつ)が関東一円から浄財を募って再建したもので、別名「狸の三門」といわれています。これは三門建立の折、この寺で育てられた古狸がその恩義に報いようと、僧侶の姿に身を変じて住職を助けて大活躍したという言い伝えによります。 ◆梵鐘(国宝) 建長7年(1255)に、大和権守物部重光が鋳造したもので、大覚禅師による銘文が浮彫りにされている名鐘です。 ◆柏槇(びゃくしん)(名勝史跡・新日本名木百選) 仏殿の前栽として敷石道の両側に7本の柏槇の古木があります。これは宋風の前庭様式を踏襲したもので、古木の中には幹回りが7mのものもあり、創建当時から750年もの歳月と幾度かの火災を生きぬいた貴重なものです。大覚禅師お手植と言われています。 ◆仏殿・唐門(重要文化財) 当寺の本尊地蔵菩薩をお祀りし、儀式を行うお堂で、正保4年(1647)に、東京・芝の増上寺より徳川二代将軍秀忠の夫人、崇源院(すうげんいん)の霊屋を移築したものです。 唐門は、屋根が唐破風(反曲した曲線状の破風)になっている門のことで、中国式という意味ではありません。元は、仏殿の前の中門で勅使の通る門です。 ◆法堂 (県重要文化財) 法堂とは住職が仏に代わって須弥壇上で説法をするためのお堂で、拈華堂(ねんげどう)とも言います。中央奥に千手観音像が安置され、儀式法要を行います。文化11年(1814)に再建され、関東では最大の法堂です。 ◆庭園 (名勝史跡) 方丈(龍王殿)の背後にあり、夢窓国師の作とされる鎌倉 建 長寺池(さんぺきいけ)(心字形の池)を中心とした禅寺を象徴する庭園です。江戸時代に改修され、池の中に亀をおいて橋をかけ、池辺には石、松、槇、つつじ等を配した瀟洒な名園です。 ◆半僧坊 境内奥の山の中腹に、建長寺の鎮守・半僧坊大権現が祀られています。明治23年(1890)に、当時の住職霄貫道(おおぞらかんどう)が静岡県奥山方広寺より勧請したもので、霊験あらたかで参詣者が絶えません。毎年正月、5月、9月に大祭祈祷会を行っています。第2次世界大戦で供出されていた天狗像(半僧坊大権現のお供)も昭和55年に復元されました。 ◆禅堂 大覚禅師が中国より伝えた純粋で厳しい禅風は、現在も綿々と受け継がれ、日夜厳しい修行が行われています。一般には未公開です。

銭洗弁財天(宇賀福神社)

文治元年巳の年巳の月巳の日 「之より西方に一つの谷あり、境域清浄にして神泉あり。 今後この霊水を汲み来りて絶えず城中にて用い 天神地祇両部会の神仏に供養する時は 人民自ら信仰心を起こし四海の内豊楽の栄を見ん。我はすなわち隠里の主宇賀福神なり。」という夢の中の老翁のお告げにより 源頼朝公が近侍に命じて霊告の清泉を尋ね当てここに宇賀福神を勧請し この隠里の名泉を鎌倉府中四井の御前水に加え五名水と称しました。 その後 正嘉元年巳の仲秋 時の執権最明寺時頼公が頼朝公の信心に基づき福徳の現れるべき「辛巳なる金」の縁日を選び 人々に参詣をすするめるとともに 「これを信仰するもの 貨幣を持ち来りて この霊水にてその心とともに洗い清めるとき 不浄の塵垢は消えて福銭となり 一粒万倍の功力を顕わし 一家繁昌子孫長久の守となるべし。」 と自ら銭を洗い祈誓したため 信仰の厚い人々がこれにならいこの水で洗った金銭財宝は如何なる場合にも損耗して消えることのないという奇跡によりその後幾百年の間 巳の日の縁日には人々が多数参詣しております。

報国寺

報国寺は、建武元年(1334)に創建された、臨済宗・建長寺派の禅宗寺院です。開山は天岸慧広(仏乗禅師)、開基は足利家時(足利尊氏の祖父)です。 本尊は釈迦如来坐像(市指定文化財)で、仏帥宅間法眼作と伝えられています。 他に開山仏乗禅師像(市指定文化財)1347年作や迦葉尊者像などを御堂に安置し、さらに、開山の著書「東帰集」(国指定重要文化財)や、開山使用の木印(国指定重要文化財)や、聖観世音菩薩像は、鎌念国宝館に保管されています。 休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生え現在の「竹の庭」になりました。

成就院

弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地で護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。 その後、この霊地に承久元年(1219)執権北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王きまをまつり普明山法立寺成就院(フミョウサン・ホウリュウジ・ジョウジュイン)と名付け建立した。 元弘三年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し近くの西ガ谷に移っていたが、元禄年中に祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。 本尊は縁結び不動明王さまであり境内のご分身前で「添え護摩木」を焚き清め願意成就を加持祈念する添え護摩供養を修している。 六月には、由比ガ浜を望む108段の階段両側に般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが咲く。

東慶寺

鎌倉幕府の第8代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば絶縁できる女人救済の寺として、開山以来、六百年近く縁切りの寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。 境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。 ◆由緒 禅・臨済宗。鎌倉市山の内、横須賀線北鎌倉駅前、徒歩三分、開山は北条時宗夫人覚山尼。弘安八年(1285)開創。五世後醍醐天皇皇女用堂尼以来松ヶ岡御所といわれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼、明治に至るまで男子禁制の尼寺で、駈入寺また縁切寺としてあまたの女人を救済した。今は前円覚寺管長釈宗演禅師を中興開山とする男僧寺。 聖観音(重文)、初音蒔絵火取母(重文)、キリシタン聖餅箱(重文)、古文書、縁切文書、禅僧の墨跡等は松ヶ岡宝蔵に出陳、水月観音(県重文)は水月堂に安置。 西田幾多郎、岩波茂雄、太田水穂、和辻哲郎、三枝博音、高見順、川田順、安倍能成、鈴木大拙、小林秀雄、田村俊子等の墓、前田青邨筆塚、向陵塚、佐佐木信綱歌碑、四賀光子歌碑等がある。