御霊神社

当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政(かげまさ)公一柱となる 源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑(あづまかがみ)」に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である 祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある 景政公十六才にて奥州後三年役(永保3年 1083~応徳4年 1087)初陣す 左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し(たおし)陣中に帰り、其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり武士の鑑(かがみ)と永く仰がれている ◆由緒 御霊神社は、其の昔、鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として、五霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神し、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました この権五郎景政公の命日が9月18日で、この例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは、伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です 此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており、此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています

佐助稲荷神社

当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命(うかのみたまのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・佐田彦命(さるたひこのみこと)・大宮女命(おおみやのひめのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)。 往古頼朝公伊豆蛭ヶ小島の配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、稲荷の大神気高き老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示し給えり。 頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿を造建せしむ。人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷としてその御神徳は広く関東一円に拡がりたり。 さらに寛元の頃(13世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介稲荷の大神再び奇瑞を現し給い、霊種をして薬草を生ぜしめ病苦の者、ことごとく癒し給いぬ。 以来、神威更にかがやき、商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。 ◆縁結び十一面観世音菩薩 徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木造十一面観音は、良縁うすく、諦めて仏門に入られた美しい姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことをと祈りつつ彫られたと伝えられています。 ※ 5月18日に開帳されます。 ◆源十郎弥十郎事(佐助稲荷霊験譚) 昔、源十郎ト云魚商人アリ、魚ヲ荷テ由比浜ヲ通リケルニ、犬有テ狐ヲ遂テ走来ル、狐遁難ケレハ、源十郎カ荷ヘル籠ノ中ヘ飛入、源十郎是ヲ見テ憐ト思イ 犬ヲ制シテ狐ヲ助ケタリ、其夜ノ夢ニ狐来テ告テ曰ク、御情ニ依テ我今日ノ難ヲ免レタリ、其御恩ヲ報セン為ニ来レリ、源十郎殿曰来ノ所作ヲ止テ、左介谷ニ於テ蘿蔔(らふく)ヲ作リ給ハ、大ナル幸アラント云ト見テ覚ヌ、源十郎意得スナカラ狐ノ教ニ随テ、左介谷ニテ地ヲカリテ蘿蔔ヲ作ル、其年ノ冬、鎌倉中ニ疫癘(えきれい)起リテ死スル者十カ八九、貴賤此事ヲ嘆キアヘリケルニ、或人ノ夢ニ神来テ告テ曰ク、左介谷ノ源十郎カ作レル蘿蔔ヲ買テ食シタラハ、病立トコロニ差へシト示シ給フ、此夢ノ告ヲ鎌倉中へ披露シケレハ、我劣ラシト彼蘿蔔ヲ買得テ食スル程ノ者、其病、差スト云事ナシ、カカリケレハ其蘿蔔モ減シ行ニ随テ、価モ次第ニ高値ニ成テ、源十郎忽ニ富人トナル、是狐ノ教ニ依テナリトテ、先稲荷明神ノ社ヲタツ、即今ノ神社是也、蘿?・蘿蔔(らふく)とは大根、(すずしろ)のこと 「金兼藁」万治二年(1659年)収録 ◆佐助稲荷神社 祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・佐田彦命(さるたひこのみこと)・大宮女命(おおみやのひめのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)で2月の初午に例祭が行われます。社伝によると源頼朝が建久年間畠山重忠に命じて再建させたといわれ、その時、台と山崎の地を社領として寄進したと伝えられます。 ◆霊狐泉(れいこせん) 佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。生命の基のこの湧水を人々霊孤の神水と称え家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。今に至るも絶えず湧き出づる霊孤の泉なり。

杉本寺

当山は天平6年(734)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。 次に、仁寿元年(851)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和2年(985)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併せて坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賤の順礼絶えず。時に文治5年11月23日の夜、隣屋より火災起こり、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。 其の後、建久2年9月18日に源頼朝公御堂宇再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ち賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。 時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈眼を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟により落馬等の利罪も止むと云う。 依って頼朝時代より秘仏とされたのである。

浄智寺

鎌倉五山第4位、臨済宗円覚寺派、金寶山浄智寺は、弘安4年(1281年)北条時頼の三男宗政が29歳で没後、間もなく、宗政夫人と幼少の師時(もろとき)を開基にして、宗政の菩提を弔うため創建されました。 中国、宋の名僧、兀菴普寧(ごったんふねい)と大休正念、及び日本僧南洲宏海の三人が開山になっています。これは、当初開山に招かれた宏海が、任重しと身をひき、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀菴普寧を開山としたためです。 創建当初の伽藍は、外門、山門、行堂、仏殿、方丈、庫裏等を備え、塔頭は11院に及んだということです。 永い間には、ただずまいも変化し、現在は、看門寮、山門、鐘楼門、仏殿、書院、方丈、隠寮、庫裏等の堂宇が柏槙や杉木立ちの中に点在しています。 境内は、周囲を緑の山々にかこまれ、昔ながら、広大な寺域を残しており、地理的環境と鎌倉五山の伽藍遺構を後世に伝えるため、国の史跡として保護されています。 ◆寺史 浄智寺が創建された十三世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期である。 ◆開基 執権として有名な北条時頼の三男宗政が二十九才の若さで弘安四年(1281)に没しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。 ◆開山 中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、およぴ日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。 はじめ、開山に招かれた南州宏海が、大任すぎるといって身をひき、師の大休正念を請じて入仏供養の儀式をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山にたてたため、複雑な形になったらしい。南州宏海は嘉元元年(1303)に死去し、以後、高峰顕日・夢窓疎石・清拙正澄・竺仙梵僊・古先印元などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。 延文元年(1356)の火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、あるいは蔵雲庵・正紹庵・正源庵・竜渕山真際精舎・楞伽院・正覚庵・大円庵・同証庵・正印庵・興福院・福正庵といった塔頭が建ちそろっていた。 戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさぴれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぷりをうしなう。江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これらの建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰した。現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形造っている。 ◆環境 浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相ついで寺院を建てた北条氏の所領であつたので、今でも禅刹が多い。山を挾んだ隣りが駆込寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぷ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのぴ、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の隧道をぬけると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている。全域が、昭和四十三年三月、史跡に指定された。 参道入口の石橋のほとりにある甘露の井は鎌倉十井の一つとして名高く、裏山天柱峰には名僧竺仙梵僊の供養塔や以前この地に住んだ英国の日本文化史研究家G・B・サンソムの記念碑がある。植物もゆたかで、梅・牡丹・シヤガ(著莪)・夏椿などのほか、庭の白雲木が、五月には美しい花を開く。 参道右横の大木タチヒガン(さくら)は、見事な美しさで神奈川県指定百選の一つになっている。また、仏殿横のコウヤマキは鎌倉第一の巨木で、鐘楼前のビャクシンとともに鎌倉市指定文化財である。 ◆文化財 ○木造三世仏坐像  神奈川県童要文化財 本尊として仏殿にまつる。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来の時を代表する。十五世紀半ぱごろに再興された像で、鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式の典型的な作品。 ○木造達磨大師像 菩提達磨はインドの僧で、中国に禅をつたえ、六世紀はじめに歿したという。禅宗の祖師としてうやまわれ、その肖像はほとんどの禅刹でまつられている。十四、五世紀ごろの作品。 ○木造大休正念像 禅宗では、達磨など祖師方の関係深い僧の肖像を、絵画や彫刻でつくっているが、この種の肖像中、これは代表的な作品といえる。面部の写実はきわめて鋭く、衣文部の彫技もすぐれている。十四世紀ごろの作品であろう。 ○木造南州宏海像 大休正念像よりこがらで、十四、五世紀ごろの作品であろう。以前は兀庵普寧の像もあったというが、うしなわれた。 ○木造観音菩薩立像 もと三門の上に五百羅漢と一緒にまつられていた像である。南北朝時代の作。 ○木造地蔵坐像  重要文化財  鎌倉市指定文化財 鎌倉国宝館に出陳中。 右手に錫杖、左手に宝珠を持って安坐する像で、鎌倉時代後期の作品。 ○木造章駄天立像  鎌倉市指定文化財  鎌倉国宝館に出陳中。 韋駄天は寒建陀・建陀とも呼ぱれ、天軍の将で走力にすぐれ、邪神を消除して釈迦の遺法を護持するといわれる。甲冑を着け、合掌した腕の上に宝棒を横たえる。顔や両手などは江戸時代に補われたらしいが、胴部は古く十四世紀ごろの作品である。冑の模様には、土をねって型にいれ貼りつけて刺繍に似た効果をだす土紋が使われている。 ○西来庵修造勧進状 重要文化財  鎌倉国宝館に出陳中。 西来庵は建長寺開山大覚寺禅師蘭溪道隆の塔所である、同庵が荒廃したのを歎き、建長寺に住したことのある禅僧玉隠英が、修造の資材をあつめるため、英正十三年(1516)に書いたもの。

荏柄天神社

荏柄天神社は長治元年(1104)の創建と伝え大宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。祭神は菅原道真(845年~903年)。治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入り大倉に幕府を開くと、その鬼門の鎮守とされたと伝えられています。鶴岡八幡宮と共に武家政権の守護神として、また東国における天神信仰や詩歌信仰の中心となりました。 社殿奥に建つ本殿は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。この本殿は、正和5年(1316)再建の鶴岡八幡宮若宮を、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し移築したものと考えられています。門の東側には、天神が降った場所とされる位置に大銀杏があり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。

光則寺

「立正安国論」などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました。やがて、光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。 境内の裏山には、日朗上人が捕えられていたといわれる土牢が残っています。 境内には法華経の信者だった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、樹齢200年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。

大船観音寺

昭和4年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定な社会情勢の中にありました。 そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和9年には観音様の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。 昭和32年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純、東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和35年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。 その後、昭和56年、大船観音協会は宗教法人大船観音寺と改称し、曹洞宗大本山総持寺の末寺として現在に至っております。

妙本寺

身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古のお寺。この地は比企能員(ひき よしかず)の屋敷跡である。建仁3年(1203年)、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が後継者問題を口実に比企の乱で攻め滅ぼした。 その後比企能員の末子の比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)が日蓮上人と比企の乱で滅んだ比企一族の菩提を弔う為に創建された。 二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。 ◆地名のいわれ 比企谷は地名、其の起りは頼朝公の乳母比企の尼は、公が伊豆へ流罪の身となってからも、心を公に寄せ、尼の娘夫婦安達藤九郎夫妻は終始公に随身し、尼も亦常に公をお見舞いしていた。鎌倉開府に及び、公は尼の老後を慰めるため家を造って呼び住まわせたのが、現在の祖師堂の地点である。公の妻政子懐妊するや、尼の許に安産したのが、後の頼家将軍である。のみならず、尼の比企家の跡取は夫婦養子で比企能員(よしかず)と云い、公に重用され、現在の妙本寺庫裡の地点に住って居た。これ等のため此の谷を比企谷と云う。 ◆比企の乱 比企能員の娘讃岐の局(初め若狭の局と云った)は、将軍頼家の側室となリ、嫡子一幡を産んだ。即ち将軍の外戚と云う関係を生じたのである。将軍と北条時政とは常に不和であった。将軍は北条を亡ぽさんとの計をたて之を能員に計った。其の密談が露見して、北条方に先手を打たれ、能員はじめ比企一門全部討ち亡ぽされた。讃岐の局は火攻めに遭って池に身を投げ、将軍の嫡子一幡は僅に六歳で此の乱に焼死した。建仁3年9月2日の事である。翌日灰の中から一幡の遺骸が発見され高野山に葬り、焼け残りの袖を埋めたのが、今に残る一幡君袖塚(史蹟)である。これを比企の乱と云う。 ◆比企家の再興 比企の乱に幸いに生き延びた二人の乳幼児がいた。一人は讃岐の局を母とする頼家将軍の娘子(よしこ)、一人は能員の末子比企能本(よしもと)である。共に当時二歳であった。能本は京都で成長し、武門を捨てて儒者となった。順徳上皇に仕え、佐渡遷幸にお供し、上皇崩御の後儒官として鎌倉幕府に仕えた。それが頼経将軍の時で、比企家は此処に再興され、大学三郎能本と称して、父母の住んだ比企谷に屋敷を持ったのである。 ◆信仰を強めた一事 能本が此の地に住んで居た時が、日蓮聖人の鎌倉弘通時代で、聖人は辻にまで立って説法された。能本は深く聖人に帰依していた。ところが、文応元年十月、時の連署(役名)北条政村(時政の孫)の息女が俄に物に憑かれた恰好で座敷中をのたうちまはり、「自分は讃岐の局である。今は蛇身を受けて比企谷の土中に在り頭に火炎が燃えて苦んでいる、北条家に怨みがある」。と云うのである。さては比企の乱の恨みを指すものとして、鎌倉中の僧侶を招いて、一日経頓写会を行なったり、別に八幡宮の別当隆弁に祈祷を依頼したりした。この事は具さに吾妻鏡十七巻(二十八紙以下)同四十九巻(三十三紙三十八紙)北条九代記にも記載されている。能本にしては、讃岐の局は姉であり、世が世であれば姉の産んだ一幡君は頼家の嫡男で、当然将軍職に就くべき人、婦人の斯の恨みは想像出来る。殊に父母兄姉一門罪なくして全部殺されたことを、能本常に歎きその得脱の法筵を日蓮聖人にお願いした。 聖人は、能本のこの心中を深く愍(あわれ)み、「儒者は三世因果を知らず、されば父祖の迷苦を救うによしなし」と、一日経を誦し法華経の功徳を回向せられ、殊に能本の姉讃岐の局の霊を蛇苦止(じゃくし)明神と勧請された。 因果を信じ霊の存在を疑はないことは、信仰の重要な基礎である。恐らくは、能本の信仰はこれによって一段と深まったことであろう。 ◆妙本寺の創建 一夜にして亡びた父母兄姉の冥福、それは何よりも、法華経弘通の根本法城を造るに越したことは無い。宗門最初の寺を此の鎌倉に造る善根、これぞ時にとって最も急を要する護法の事業である。「よし邸地を捧げて此の功徳を成就しようぞ」とは能本の心中であったであろう。同時に此の事は街頭に辻説法される聖人のお姿を拝して、常に胸中に往来する弟子檀方の希望でもあった。そこで能本は吾が屋敷を捧げて御納受を願った。聖人は之を深く嘉賞なされて、ひそかに長興山妙本寺と命名された。 (文応元年)妙法の弘まる根本の寺妙本寺、なんとうるわしい名前であろう。長興は長く興るで末法万年広宣流布を意味している。然も能本の孝養の志を賞して、長興の二字を父能員公の法号に、妙本の二字を母上に分ち与えた。即ち最初の檀越である。父母孝養、善根菩提、弘通外護と一ぺんに成就するこれが本当の法華経の功徳利益である。其の後聖人、伊東、佐渡両度の流罪には、能本は幕府の内に在って頗る執権を諌めるところあって、これ等外護の志し薫発して、文永十一年聖人佐渡より鎌倉へ帰られた。 (能本この時七十三歳) ◆妙本寺の実現 「文永十一年三月二十六日鎌倉比企谷に着す、大学三郎履(くつ)を到(さかしま)にして之を迎ふ」と本化高祖伝に記してある。これは聖人が佐渡より比企谷に帰られたことを云うので、四月朔日開堂の式をととのえ、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法を講じ給い塔中別付の本懐を開き末法万年の法雲を長に興し一閻浮提妙法の根本霊場たるべし、と祝祷なされた。依ってこの場所即ち比企谷を「三大秘法最初転法輪」の道場、と称する所以でもあり、妙本寺を公称し得たのは聖人佐渡赦免後である。 ◆両山一主 爰を以て聖人身延隠棲に際しては妙本寺を日朗上人に付属し、また池上入滅に際しては、儼として長興長栄両山一主の規を定め日朗上人に付属せられた。蓋し本門寺は能弘の導師入滅の地、妙本寺は所弘の妙法最初流布の処なれば、終始一貫、人法一如、甚深の聖意拝察すべきである。 よって朗師興栄両山を兼職すること三十七年、三世日輪上人、四世日山上人等爾来その古制を遵守して法灯連綿。然るところ第七十四世謙光院日慎上人(酒井日慎)に及んで、国家の宗教団体法制定により昭和十六年この制度が廃止された。因に妙本寺第七十五世は一信院日雅上人(島田勝存)第七十六世は金子日威上人であり、第七十七世は常立院日徳上人(蒲田行静) ◆三長三本 比企谷長興山妙本寺、池上長栄山本門寺、平賀長谷山本土寺と山号寺名ともに長が附き本が附くので、これを三長三本と云い朗門の古刹である。 ◆比企谷新釈迦堂(旧法華堂) 頼朝公の血を引く源氏は頼家、実朝の三代で男系を失った。其の政権維持の為であったろう。前記 頼家の女子子(よしこ)に、京都から藤原頼経を迎えて四代目の将軍とした。子(よしこ)は将軍の御台所となったのである。御所名を「竹の御所」と云う。やがて懐妊したが死産で、肥立が悪く最早此の世の人と思はれぬ臨終の折りの遺言に「自分はお釈迦様を信仰したので、亡き後は此のお像をお祀りする堂を造り、その須弥壇の真下に自分を埋めてほしい」と云うのであった。何分源家に残った最後の人であり将軍の正室なので、遺言通り造られたのが比企谷新釈迦堂で、その地点は、祖師堂の北の谷にあった。(現在は墓地になっている)天保年間に、堂宇を縮小して下の祖師堂前左側に移築されたが、大正十二年関東大震災に倒潰した。現在その跡に、前田健二郎氏の設計により近代化した建造物が出来た。(七十六世日威上人、七十七世日徳上人両代)これを霊宝殿と称している。 前記の釈迦像は中国の陳和卿作の立像仏で、現在はこの霊宝殿に安置されている。 ◆万葉註釈と仙覚律師 新釈迦堂の創立はそう云う由来なので、幕府は其の建設と共に堂に供僧職(住職)を置き、且つ供田(寺領)を付した。供僧職の初代かと想像される人に、仙覚と云う人があり、此の人は十三歳の時から神仏に願をかけて、どうぞ万葉集の本源を悟らしめたまえ、と祈った程の人で、当時万葉研究の第一人者であった。其の頃万葉の異本は六本あったそうで、その為将軍の命を受けて初めに定本を作り、次いで又註釈を命ぜられたのである。そこで釈迦堂の僧坊でも註釈を書き、又供田である今の埼玉県比企郡大河原村増尾でも書かれた。即ち、校定本の奥書に、寛元四年十二月廿二日、於二相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊一以二治定本一書写畢。とある。又、文永六年孟夏二日、於二武蔵国比企郡北方麻志宇郷政所一註レ之了。権律師仙覚とある。故に今日なお万葉研究者をして追慕の情を深からしめる処である。大正十年の夏、歌人佐々木信綱先生が、仙覚の遺蹟を訪ねて来山されたことがある。 その折り記念に歌一首を残された。 夏の日仙覚律師の住みし比企ケ谷をとひて      信綱 奈良の葉のふりにしあとよいまいづら せみしぐれこそさかりなりけれ ◆蛇苦止明神 妙本寺北方の山に在る蛇苦止明神社は、前記讃岐の局の霊を祀ったので、比企谷の鎮守として勧請されている。又此の場所が局の住んで居た一幡君の小御所で、比企の乱に一幡君はここに焼死し、局は身を池に投じ、一門は悉く此処に戦死した。そう云う古蹟なのである。これはずっと後応永二十九年十月の事であるが、佐竹と上杉の戦争があって、負けた佐竹上総介入道常元は、山を越えて妙本寺祖師堂の北の谷法華堂の矢倉の中に於て主従十三人自刃した。上杉方は之を追って妙本寺に火を放けた。 トンダ災難を受けたのは妙本寺で、時の貫首日行上人は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼きたくないと、日蓮聖人真筆の本尊を取り出し、駆け戻って蛇苦止堂の井戸の中へ格納した。すると忽ち空中に黒雲が起り、その中に蛇の姿が見え、やがてどうどうと雨が降って火を消したと云う奇瑞が現われ、その難をまぬがれたので「蛇形の井戸」と云っている。又、前記の本尊は、日蓮聖人が武州池上で入滅の際、その枕辺に祀られた本尊で、臨滅度時の本尊と称せられ、弟子の日朗上人が妙本寺唯一の霊宝として残されたもの、此の奇事あって以来「蛇形の本尊」とも呼ばれ、世に有名な話となっている。 ◆祖師堂 当山の祖師堂は、日朗尊者建立の後、日調上人再建す。現在の十二間四面の堂は、天保年間日教上人(両山四十七世)の建立によるものである。内部の御宮殿は元は、鼠山感応寺のもので、鼠山感応寺と云うのは、天保七年将軍徳川家斉公の肝入りで、江戸雑司ヶ谷に建立された本宗の巨刹であった。其の頃将軍家と深い関係の寺は、代々芝の増上寺か、上野の寛永寺かに決っていたようである。それが側室の熱心な法華信仰からとはいえ、将軍を動かし、将軍家の寄進で此の寺が建ち、然も翌天保八年には、幕府から三十石の寺領が賜わると云う程であったから、裏面の葛藤は想像に余りある。ところが天保十二年家斉公の薨去とともに、水野越前守忠邦の財政改革の為早速取毀わし、廃寺の運命に遭った。創建の願主が両山四十八世日万上人であった関係上、比企谷妙本寺では其の祖師堂、客殿等を礎石とも引取ったのである。又明治八年身延山久遠寺火災の折リ、日鑑上人(身延山七十五世)の懇請によって其の祖師堂の材料を身延山へ寄進された。当時其の材料を鎌倉由比ヶ浜から海路波木井川へ運搬された古文書が日鑑上人からの御礼の七言絶句と共に妙本寺に今も現存している。 ◆寿像の祖師 祖師堂の壮厳華麗な御宮殿に安置の祖像は、日法上人(中老僧)刻むところの一木三躰最初第一の作にして、日蓮聖人御存命中に謹刻された御尊像なるが故に、「寿像の祖師」と尊称されている。(一木にて三躰を作り、身延、池上、比企谷の三山に安置す)尚、御宮殿に向って右側中央に、二世日朗尊者の像を安置す、その左右に比企能員夫妻を祀る。能員の法号は長興、妻の法号は妙本、長興山妙本寺の建立に合わせて、聖人が大学三郎能本の追恩孝養を賞でられ、斯く命名し給う処である。又向って左側中央に三世日輪上人の像を安置す、この左右に能本夫妻を祀る。能本は後出家して本行院日学上人と呼び、妻の法号を理芳尼という。 ◆二天門 天保年間(本行院日恭上人代)建立にして、朱塗りの門である。両脇に持国天、毘沙門天が祀られている。 ◆鐘楼 祖師堂と本堂との中間、小高い丘にあり昭和九年(日雅上人代一に再建された朱塗りのものである。古来よりあった梵鐘は元禄十七年両山二十二世日玄上人代に鋳造されたものであったが、惜しくも大東亜戦の際供出した。現在の梵鐘は、昭和三十五年第七十六世日如上人(後に日威と改む)代に再鋳された。銘に和歌あり 篤信の誠の籠る鐘の音は                妙の御法をとはに伝へん ◆本堂 旧本堂は大正十二年の関東大震災に倒潰し、昭和六年第七十五世日雅上人代に新築された。当山唯一の霊宝である宗祖臨滅度時本尊の御写しと、祖像を奉安してある。 ◆書院、庫裡 大正の大震災に倒潰し、昭和七年日雅上人代に再建された。 ◆奥の客間、並に貫首居間 昭和五十六年(日徳上人代)に新築された。 ◆蛇苦止堂 旧堂は関東大震災に倒潰し、大正十四年(日肝上人代)に再建された。讃岐の局の霊を祀る。賽者多し。 ◆総門 天保年間の建立。これ又、大震災に倒潰し、大正十四年(日肝上人代)に再建された。 ◆比企谷幼稚園 九老僧日伝上人庵室の旧蹟にして寺号を大円坊と呼ばれていたが、大正十二年関東大震災に倒潰した。昭和十二年(日雅上人代)八角堂の園舎を建立して妙本寺経営による幼稚園を開設し現に存続している。 因に、大円坊は昭和二十六年妙本寺に合併して廃寺となる。 ◆源子(よしこ)墓 祖師堂左池の上にある。二代将軍頼家卿の息女で、四代将軍頼経卿の夫人である。文暦元年九月二十七日、三十二才で逝去。 ◆比企一族の墓 大学三郎能本夫妻、其の父比企能員夫妻の四基の墓が一所に祀られ、之を護法廟と称されている。 ◆佐竹上総介入道常元以下十三騎墓 祖師堂左池の上(法華堂旧地)矢倉の中にある。応永二十九年十月三日、佐竹入道常元父子が、養子のことで上杉憲定と合戦に及び、敗れた佐竹父子主従十三人が此処に討死した。 ◆有名人の墓 近来の有名人として日露戦役に海軍の名将たる上村彦之大将、仏教学者として世界的に名を馳せた潮風姉崎正治博士、文士には丹下左膳の著者林不忘(本名 長谷川海太郎)、漢学者塚本柳斉等の墓がある。皆な日蓬宗信者であった。 ◆霊宝 一、立像釈迦牟尼仏    宋の陳和卿作にして源媛子の念持仏と伝う 一、日蓮聖人尊像 弟子の日法の作生前の実写なるによリ容祝推知の一権威あり世に一木三体の祖師又寿像の祖師と尊称さる祖師堂に安置(市の重要文化財) 一、臨滅度時の本尊 日蓮聖人真筆弘奏二年三月の書原型は長さ五尺二寸幅三尺三寸七分の大幅なリ聖人池上に於て臨終の砌 枕辺に奉掲せし本尊にして後世故ありて蛇形の本尊とも称す 一、日蓮聖人真筆本尊十幅 聖人の教義に於て重大な指示を与えるもの教義研究者にとって重要な資料となる 一、日朗上人真筆本尊六幅 朗師の風格を伺小得るものとして宗門の重宝なリ 一、日蓮聖人消息断片数通 一、歴代上人本尊 一、日蓮聖人御真骨 頂骨五片あり 池上に於て茶毘の際 日朗上人これを得て終身首に懸け常随給仕の範を示された現在雲玉殿内多宝塔に納められている 上下二段にて 上段宗祖 下設朗師 一、日蓮聖人所持念珠 一、比企大学三郎所持の硯 精巧な浮彫清そな雅致がみられる 一、全あ鐵 一、讃岐の局所持の琴 薄命の佳人讃岐の局は峰の松風に机してよく琴を弾かれたと伝う 一、古文書 五十数通 一、雲盤 建武四年三月五日大工清原宗広の刻銘がある(国の重要文化財) 一、黒塗木杯三個                鎌倉時代の逸品平重衡が千寿前との別宴に用いし器なリ 鎌倉国宝館出品中 一、略法華経                 徳川慶喜公筆 一、釈尊涅槃像(画)             鎌倉前期清安法橋の作 一、制札                   天正十八年朱印一秀吉よリ一其の他多数 一、下馬札                  天正年間 一、心性院日遠上人所持の経机、硯箱、茶碗等 其の他宝物什器多数あれど省略す ◆阿仏尼の歌 有名な十六夜日記の作者阿仏尼は比企谷常栄寺の附近にも住んでいたことがあると伝えられている。尼はもと安嘉門院の侍女で四条と称し、藤原定家卿の嫡子である為家の夫人である。此処に住みし頃の歌が其の十六夜日記にある。 しのびねは比企の谷なるほととぎす くもゐにたかくいつかなのらん

寿福寺

亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。 この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。 現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり、往時のおもかげを残しています。