出雲大神宮

出雲大神宮は、京都府亀岡市千歳町にある神社。式内社、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。

穴太寺

西国観音霊場二十一番札所。美しい庭園は丹波名庭のひとつ。撫で仏として知られる釈迦涅槃像が安置されている。 ◆由緒 穴太寺(あなおうじ)は、山号を菩提山と号し、天台宗に属します。古くは、「穴穂寺」「穴生寺」「菩提寺」などとも呼ばれていました。創建は、寺伝によると慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麿によって、薬師如来を御本尊に安置し建立されたと伝えます。 その後、平安時代になると、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成によって聖観世音菩薩を当寺に奉迎することになりました。これには仏師の身代わりになり、弓矢を受け、その命を救った「身代わり観音」の霊験譚『穴太寺観音縁起』が伝えられています。二のお話は『今昔物語』や『扶桑略記』などに語られ、早くから世に当寺が知られるようになりました、 現在の本堂には正面須弥壇にある三つの御厨子の内、真中に御本尊薬師如来、左側に札所御本尊聖観世音菩薩立像、右側に御前立札所本尊聖観世音菩薩立像の三尊を安置しています。この観世音菩薩は、緑起にいう平安時代の菩薩さまではないですが、胸の傷とともに同じお姿に模刻されています。しかしながら、薬師如来と観世音菩薩は秘仏であり、観世音菩薩は三十三年毎の御開帳、薬師如来に至っては完全な秘仏として御開帳した記録はありません。普段は御前立の観世音菩薩が、ご参詣の皆様をお迎えしておられます。 当寺の観世音菩薩は大悲代受苦の御誓願「身代わり」の霊験のほかにも、女性をお守りくださる女人安産のお寺として、古来より安産御祈祷の腹帯をお授けする霊場でもあります。鎌倉時代には鎌倉幕府の祈願所となり、諸国を遊行し踊り念仏をひろめた、時宗の祖である一遍上人は、観世音のお導きによって当寺に滞在し、この地に集まった、多くの人々と結縁されました。南北朝時代以降は比叡山西塔院末で、室町幕府から所領や執行職を安堵されていました。戦国時代になると、戦火や明智光秀による亀山城築城の用材として、当寺の堂宇を壊し流用したとも伝えられ荒廃していたようです。江戸時代に入って再興の勧進が実り、諸堂を復興し今日に至ります。 現在でも観音信仰はもとより、正月に本堂前に組まれた、櫓から福札(牛玉宝印)をまいて授ける福給会(ふくたばえ)や8月9日のお盆に口丹波の新仏さんを鬼灯(ほおずき)でお迎えするお精霊さん迎えなど在郷の人々の信心を集める寺院です。 ◆釈迦如来大涅槃像(鎌倉時代) お釈迦さまがインドクシナガラの地で生涯を閉じ、涅槃に入られるお姿です。日本では、二月十五日にその遺徳を追慕し涅槃像を供養しますが、大体が画像で、当寺本堂右脇壇におられるような等身大の彫像は全国的にみても大変珍しいものです。蓮華座を枕にして横たわるお姿はまことに円満で、悟りの境地に入られた表情をよくあらわしています。 この尊像は明治29年(1896)に本堂屋根裏よりお出ましになりました。当時の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参詣をしていた信者の霊夢によってこの尊像を探し当て、堂内に祀ると孫娘の病が快癒したと伝わっています。 それ以来、諸病悉除の釈迦大涅槃像として、自分の病の個所と同じ尊像の部分を撫で、自分の体をさすり返すとお釈迦さまの、ご利益に与かれるとして、癒しを求める参詣者に全身を撫でられ光沢を放っておられます。 ありがたや諸病悉除の釈迦如来 ねがへ穴太の寺に詣でて 岡部伊都子先生著の『みほとけの対話』には「穴太寺釈迦涅槃像を拝して心ゆくまで」と題して信仰の手に撫でられさすられて横たわる黒びかりのお釈迦さま自分の病気の部分を「どうぞ治してください」と祈りながらさすると治してくださるという。からだは悪い所となるばかり、それにまして心病める者・・・いったいどこをなでさするべきかと、とまどう思いだ、なかなかよき像身に触れさせてもらえない悲しみがある。このみ像は人目をしのぷ罪意識もなく、心ゆくまで触れさせてもらいたいおおらかな涅槃像である。 この尊像は岡部先生のいわれる通り何人といえども尊像の前に立って静かな寝像に触れさせて貰う時は万の悩み事や難症の病気も消滅していただけるように思われる偉大な慈悲あふれる涅槃像です。 ◆穴太寺庭園(府指定名勝) 書院の南面にあたる庭園は左側後方に見える多宝塔を借景として取り入れ、これに合わせて築山を設け、石組みを配して庭園美を一層引き立てています。園池の背後には、段状に二列の石組みを巧みに配して、横長の石を水平に置くことで安定感をだすなど、亀岡市内の他の庭園では見られない熟練した京都の庭師の手によって作庭されたものかと思われます。 築山の東部山すそより水が流れ出て、その前に岩山があり水分石となっています。築山の西部の池岸には舟付があって、その沖合いに向けて出舟の形式がとってあります。サツキの郡植は見事であり、センダン・クスノキ・ゴヨウ松の古木が散在して長閑な景色が広がります。書院から眺めると多宝塔が水面に姿を投影して、この庭園ならではの趣がみてとれる丹波の名園です。 ◆本堂(観音堂府指定文化財) 享保13年(1728)、前身の堂が焼失して後、7年後の享保20年(1735)に再建されました。桁行、梁行ともに五間の御堂で入母屋造、本瓦葺の屋根に三間向拝がつきます。多くの巡礼者が訪れる霊場の本堂の常として広い向拝下の土間と吹き放ちの外陣が特徴です。内部は中央三間分の格天井に花鳥図を描き、内々陣には禅宗様の須弥壇を設け華麗な彫刻と彩色を施した宮殿を据えて、本尊の薬師如来と聖観世音菩薩の三尊を安置しています。左右の脇壇には左脇に不動明王立像、右脇には平安期の阿弥陀如来立像と釈迦如来大涅槃像を安置しています。 ◆多宝塔(府指定文化財)・三十三所観音堂・納札所 文化元年(1804)再建。三間の多宝塔で柱は全て円柱になり、切石積の基壇上に東面して建ちます。軒は下重に二軒繁垂木、上重には二軒扇垂木として変化を持たせ、東西南北に四神の彫刻をはめています。内部は四天柱が立ち来迎壁を設けて、禅宗様の須弥壇に釈迦如来と多宝如来の二仏を安置します。亀岡市では唯一の木造塔として貴重な存在です。多宝塔の右側には三十三所観音堂と納札所が続きます。三十三所観音堂には西国札所のお砂が納められており、このお堂をお参りすることで、全ての西国観音霊場をお参りしたことと同じだけの功徳があるといわれています。納札所には多くの参拝者の納札が打ち付けられています。 ◆仁王門・鐘楼・鎮守堂(府登録文化財) 仁王門は南から真っ直ぐに街道が突き当たる場所に建つ三間二戸の八脚門。入母屋造、本瓦葺で、17世紀中期頃の建立と思われますが、柱には改造痕跡が多くみられ、狩野永納が延宝4年(1676)に描いた『穴太寺観音縁起絵巻』にある楼門の古材を利用しての改築ではないかとの指摘があります。仁王門をくぐり一左側には小さな鳥居と小社殿があります。このお社は当寺の鎮守一社で菅原道真公を祭神とする天満宮であり、寺紋は道真公に因み梅鉢紋です。小さいながらも本格的な一間社流造で18世紀初期に属すると思われます。その左は稲荷明神です。鐘楼は方一間の四足、入母屋造に桟瓦葺です。宝暦9年(1759)の建立です。 ◆念仏堂(府登録文化財)・地蔵堂・宇治宮成墓所 本堂の東側(右側)、納経所横に位置する念仏堂は寄棟造で、棟札によると宝永2年(1705)に建立されました。この御堂は常念仏堂ともいい、当山中興二代禅海はこの地で念仏を広めたと伝えられ、禅海によって建立された念仏道場です。本尊には阿弥陀如来坐像を安置していますが、鎌倉期と思われる頭部と胸部から下は作風が一致せず、古い時代の仏像に相当な手を加え制作された、仏像です。堂内には亀岡市内の諸所の古い位牌が多数まつられ、極楽往生を願う人々の信仰の篤さが窺えます。念仏堂の右脇には地蔵池と地蔵堂が建ち、その横には宇治宮成の墓所といわれ、室町期の様式を伝える館形の石造物が並びます。 ◆円応院(方丈及び庫裏並びに表門府登録文化財) 本堂の西側(左側)の一画に位置する方丈及び庫裏は円応院と呼ばれ、南面に府指定名勝の庭園と西面に護摩堂に続く露地の庭をあわせ持つ書院造の建物です。棟札によると中興初代行鹿が延宝5年(1677)に造営し、本堂とは渡り廊下で繋がっています。玄関車寄から南の方丈部分は、方丈建築として丹波地方では屈指の質の良さと古さを持つといわれています。主座敷は数奇屋風味を加味し南の庭園の風光とあいまって好ましい雰囲気を作り出しています。なお、表門は宝永2年(1705)建立の薬医門です。

篠村八幡宮

篠村八幡宮は、足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、亀岡市指定史跡にも指定されている。

鍬山神社

太古は湖であった亀岡盆地において、祭神の大己貴命が国作りの1つとして保津峡を開削して開拓、そして開削に使った鍬を当地に山積みしたという伝説に基づく神社

金剛寺(応挙寺)

金剛寺(こんごうじ)は京都府亀岡市にある臨済宗天龍寺派の仏教寺院。山号は福寿山、開山は高峰顕日(仏国国師)、本尊は釈迦牟尼仏。金剛禅寺、応挙寺とも呼ばれる。 1733年(享保18年)に当地で生まれた江戸時代を代表する画家円山応挙は、8歳から当寺で小僧として生活した。15歳のときに、画家の道を勧めていた住職玉堂の死を機に京都で絵を学ぶことになった。 応挙は画家として名を成した後の1788年(天明8年)に当寺に赴き、本堂6室の襖53幅と壁4面に「山水図」、「波濤図」、「群仙図」を描いた。この3作は現存し、国の重要文化財に指定されている。 2005年(平成17年)には、応挙が玉堂(第4世)を描いた水墨画の掛軸や書簡が当寺で発見されている。