曼殊院

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔(さいとう)北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当院の住持、是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。また天仁年間(1108~9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。現在の地に移ったのは明暦二年(1656)で、桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇)良尚法親王の時である。 親王は当院を御所の北から修学院離官に近い現在の地に移し、造営に苦心された。庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い。歴代、学徳秀れた僧の多かった名刹である。(国宝、黄不動尊・古今和歌集曼殊院本を蔵する。) ◆由緒 最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院(しょうれんいん)、三千院、妙法院、毘沙門堂(びしゃもんどう)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えられる。門跡とは皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が代々門主となる寺院のことで、当寺では明応(めいおう)四年(1495)に、伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。 初代門主の是算国師(ぜさんこくし)が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任した。 数度の移転を経た跡、天台座主(ざす)(天台宗最高の地位)を務めた良尚法親王(りょうしょうほうしんのう)により、江戸初期の明暦(めいれき)二年(1656)に現在地に移された。良尚法親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)の子で、父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ、大書院や小書院(ともに重要文化財)の棚や欄間、金具など、建築物や庭園の随所にその美意識が反映されている。 大書院の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、小書院の北側には、八つの窓を持つ明るい茶室、八窓軒(はっそうけん、重要文化財)がある。優雅な枯山水庭園は国の名勝に指定されており、寺宝として、「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵するが、現在は京都国立博物館に寄託されている。 ◆名勝庭園 曼殊院門跡 桂の離宮・修学院離宮・曼殊院門跡は後水尾天皇と特別深い関係がある。桂の離宮が造営された八条宮智仁親王の次男、良尚親王(後水尾天皇猶子)が13才でご出家なされると、父君、智仁親王は喜んでこの地における曼殊院造営に助力された。 建築・作庭の基本理念は細川幽斉から伝授された古今和歌集(国宝)、古今伝授(重文)、源氏物語(重文)、伊勢物語、白氏文集等の詩情を形象化することであった。それが当院の大書院・小書院・枯山水の庭園となって実を結んだ。 良尚親王(1622~1693)は25才より29才まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動尊(国宝)に祀って密教を極めた。一旦下山し、御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々にお茶やお華を指導なされた。明暦2年35才の時、現在の曼殊院の堂宇の完成をみて永住、40年間、茶道・華道・香道・書道・画道を仏道修行の具現と悟達、それを通して人間の完成に精進された。その努力の遺跡が当院であり、芸術の香り高い江戸公家文学の遺芳なのである。 ◆虎の間 (重要文化財) (大玄関)襖は狩野永徳筆と伝えられる。(桃山時代) ◆竹の間  (次の玄関)襖は江戸時代の版画。 ◆孔雀の間 (江戸時代中期) 岸駒(がんく)筆。 ◆大書院 (重要文化財) 江戸時代初期の書院建築。 奥の仏間は、もと書院の上段の間であったが、大書院西方にあった宸殿(しんでん)とりこわしの際(明治初め)、現在の場所にうつしたものである。本尊は阿弥陀如来。歴代の位碑を安置する。 なお、建築は、桂離宮との様式の類似に注意すべきで、引手等に種々の意匠をこらしている。(瓢箪、扇、等) ◆滝の間  障壁画は狩野探幽筆。(江戸時代初期)床の間の中央に滝の絵があった。欄間は、月型、卍(まんじ)くずしである。 ◆十雪の間(じゅせつのま)   障壁画は狩野探幽筆。違い棚は、様式、用材ともに桂離官のものと同じで、同時に作られたものという。 ◆庭園(名勝庭園指定) 遠州好みの枯山水(かれさんすい)である。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石(みずわけいし)からひろがり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松(樹令約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島つつじは、五月の初旬、紅に映えて見事である。この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。 ◆小書院 (重要文化財) 大書院とともに書院建築の代表的なものといわれ、とくに小書院は、その粋を示すものである。屋根は、大、小書院ともに柿(こけら)ぶき。釘かくしは富士の形に七宝の雲を配したもの。小書院入□の梟(ふくろう)の手水鉢は、下の台石は亀、傍の石は鶴をかたどっている。なお、奥に茶室「八窓席」がある。(非公開) ◆富士の間 襖は狩野探幽筆。額は、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)筆。(「閑静(かんじょうてい)亭」)欄間は菊を型どったもので、元禄模様の先駆をなすといわれる。 ◆黄昏(たそがれ)の間 上段の間(玉座)。襖は探幽筆。違い棚は、曼殊院棚とよばれ、約十種の寄せ木をもって作られたもの。 ◆丸炉(がんろ)の間 日常用の茶所。この奥に親王の日常の間がる。 ◆中庭 一文字(いちもんじ)の手水鉢、井戸があり。庭の芯は松の根元の石。 ◆庫裡 (重要文化財) 現在の通用口。石造の大黒天は鎌倉時代のもの、甲冑(かっちゅう)を帯びた姿で仏教の守護神となす。入口の大妻屋根の額「媚竈(びそう)」は良尚親王筆。論語はちいつ(はちいつ)篇に「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竃(かまど)に媚びよ」とあるによる。

天授庵

1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により虎関師錬が南禅寺開山無関 普門(大明国師)の塔所として建立。1602年(慶長7)細川幽斎が再興した。 方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。池泉を主にした庭と枯山水と二つの庭園がある。 ◆由緒 天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。 凡そ七百年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288年頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創である。 国師は離宮を賜はって禅寺とされたが既に老境にあり、未だ寺としての構造が整はざるに先立って正応4年12月東福寺に於いて病を得られ同月12日80歳の生涯を終わられた。 此の時亀山法皇は東福寺の龍吟庵に国師の病状を見舞われ御手づから薬湯をすすめられた事が侍従として御供された実躬卿の日記に記されている。 大明国師は入寂に先出ち規庵祖円禅師を推挙して第二世とされたが、離宮を改めて禅寺として構基を整備されたのは、尽く規庵禅師南院国師の功績であったため大明国師の開山としての功績は殆ど湮滅の状態となり、このためこの後数十年間は開山塔の建設さえなかったのである。 暦応2年(1336)虎関師錬が南禅寺第十五世にでるやいたくこの状態を気に留め、同年朝廷に上奏して開山塔建立の勅許を請い同年9月15日光厳上皇の勅許を得、塔を霊光と名付け菴を天授と名付くとの勅状を賜って建設に着手し、翌3年始めて南禅寺に開山塔の建立を見るに至った。これが天授庵の開創である。然るに文安4年4月2日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞われた後は復興の事もなく後輩のまま130年余を経過した。 慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言われた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。 霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵に復興を懇請したのである。 霊圭は若狭国熊川の城主山形刑部少輔の子で細川幽斎の室光壽院の俗姪であり五山の間に知られた名僧でもあったので幽斎の快諾する処となり、此処に幽斎の寄進によって慶長7年8月(1602)現存の本堂、正門、旧書院を始め諸堂尽く重建せられ旧時の面目を復興し今日に至ったのである。 ◆本堂 前述の如く幽斎の重建する処である。優雅な柿皮葺屋根をもつ建築であり光厳帝御銘の霊光塔を復興したものである。 中央に開山大明国師等身大の木像を安置し、一隅に幽斎夫妻を始め細川家歴代の位牌所がある。 棟札には玄圃霊三の自筆によって慶長七歳舎八月吉日、住山霊三、復興沙門霊圭、大工木工藤原宗正、坂上新左衛門吉家と記されている。 ◆本堂襖絵(非公開) 桃山画壇の偉才長谷川等伯の筆であり、三十二面全て重要文化財に指定されている。 本堂重建の慶長7年に制作されたもので、等伯64才晩年の傑作である。 中央の室に禅宗祖師図、上間に高士騎馿図、下間に松鶴と夫々趣きの変わったものが描かれている。 等伯は画題の多彩な事で知られているが、当庵の禅宗祖師図の如く禅宗の祖師の行状、逸話を題材とし禅の鋭く且つ厳しいはたらきを描き出したものは他に類例を見ず恐らく当庵のものが唯一であろうと思われる。 豪放とも表現しがたい筆致の上に等伯晩年の作風を伝えるものとして有名である。 ◆庭園 本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分かれる。東庭には枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵建設当初のものと思われるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長15年幽斎没後に設けられたものである。 書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言うべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合わせることによって東西大小の二池を区切って居る処、また大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せている事、或いは東池を西池より小にし之になだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組付近の石組に残る手法と共に暦応4年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語っている。 東方築山付近わずかに慶長重建の際に改造したらしい趣きが見られるのと、更には西池蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜しまれる。 幸いにも改造が庭の生命ともいうべき地割にまで及ばなかったのがこの庭の風趣をして南北朝の古庭らしい高雅さを保持せしむる所以であって、最初作庭の時最も苦心した地割の美しさを入念に味得して欲しい処である。 ◆その他 当庵には少なからぬ古美術品を所蔵するが中でも国内唯一といわれる大明国師自讃の肖像は国師の筆跡としてこれのみで重文に指定されている。聖一国師自讃像一幅、平田和尚自讃像二幅、細川幽斎夫妻像二幅等はいづれも重文指定である。 墓地には幽斎夫妻の墓、細川忠利遺髪塔の外、細川家の墓多数があり、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻、幕末の学者で維新政府の参議であった横井小楠、近くは京都新聞創刊の功労者村上作夫、堀江純吉等の墓もある。

実相院

もと天台宗寺門派の門跡寺院。寛喜元年(1229)、静基(じょうき)僧正の開基。寛永年間、足利義昭の孫に当たる義尊が入寺。 その後、後西天皇の皇子義延親王が入寺。以来、宮門跡が続いた。 客殿・御車寄など、東山天皇の后、承秋門院の薨去に際し、大宮御所の建物を賜ったもので、現存する数少ない女院御所といわれている。 寺宝には、後陽成天皇宸翰(しんかん)「仮名文字遣」(重要文化財)、後水尾天皇宸翰「忍」他、狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。 ◆「古文書」 -解き明かされる世界- 平成の世に紐解かれた古文書 実相院にはその歴史や寺格にふさわしい古文書・典籍が伝来しています。その内容は多岐に亘り、天皇・将軍の自筆書状や当時の政治・経済・社会・文化を競わせる古文書、そして「古今和歌集」「新続古今和歌集」「滞氏物語」に代表される国文学資料などがあり、日本史研究や国文学研究の上で重要な資料として認識されています。そのため、現在も各分野の研究者が実相院の書庫を訪れて調査・研究を行っています。 また、江戸時代約260年間の歴代門主の日記が伝来しており、これらには当時の風俗や事件が門跡の目を通して語られています。その意味において、江戸時代の歴史を解明する上で新しい資料を提供するものと期待されています。その中には、赤穂浪士や幕末の池田屋事件に関する記事など、従来知られていなかった新事実も確認されています。 岩倉具視を庇護し、松平春嶽ら幕閣の上洛時の宿所となるなど、幕末の倒幕・佐幕両派と繋がりのあった実相院ならではの記録は、研究者のみならず江戸時代ファンのロマンや興味をかき立てるはずです。 ◆「不動明王」一厳しさの中の慈愛- 衆生を見つめる「まなざし」 実相院の本専は木造立像の不動明王で、鎌倉時代作と伝えられています。その形相は、怒りに髪を逆立て、左目を細めつつ右目を見開いて天地を睨む「天地眼」を備え、口元は右下の牙で上唇を、また、左上の牙で下唇をかみ合わせるものです。 そして、右手には宝剣をとり、左手には羂索(網)を手にして、背後には怒りの象徴である火焔を光背としています。姿は異形・忿怒の恐ろしいものですが、その装い自体は条帛を左肩からかける姿や胸の装飾具など、基本的な菩薩の装いと同じであり、衆生を救う慈愛は菩薩となんらの変わりのないことが知られます。 実相院の不動明王は、厳しい眼差しで激動の歴史を見つめてきました。しかし、その奥には仏の慈愛があふれています。そして、人はその慈愛の「まなざし」に心が救われていくのです。 ◆ 「門跡」-その格式と歴史- 皇族方の御殿・門跡を訪ねる 門跡とは、皇族・貴族が出家し、住んだ特別な寺格のことを意味します。ここ実相院は現在では単立寺院ですが、室町時代から江戸時代にかけては皇子や皇族の入室が続き、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました。 実相院は、寛喜元年(1229)今の京都市上京区小川通今出川に創建され、大納言鷹司兼基の子静基僧正をその開基とし、今の寺地には応永18年(1411)に移されました。 その前身である実相房は園城寺(三井寺)内にあり、文献上、貞元3年(970)頃にはその存在が確認され、その時代を含めれば実に千年にも亘る歴史を誇ります。 そんな歴史的な背景から、今も院内のそこここに、格式の高い歴史を伝える文化遺産が数多く残っています。例えば、四脚門、御車寄せ、客殿などは、20世門主として伏見宮邦永親王の子、義周親王が入室されていた折、東山天皇中宮であった承秋門院の薨去(1720)に際して旧殿を移築したもので、まさに宮廷文化を今に留めています。 また、江戸時代、寺院としては門跡寺院のみに飾ることを許されたとも言われる狩野派の襖絵も、実相院には京・江戸両狩野派がその技を結実させた124面がその華麗さを伝えています。

金地院

臨済宗南禅寺派に属する。 応永年中(1400年頃)南禅寺六十八世大業徳基が北区鷹峰に開いたのが当寺の起りであるが、江戸時代のはじめ、以心崇伝(いしんすうでん)がこの地に移して再興した。 崇伝は徳川家康の信任を受けて政治外交の顧問として活躍し、寛永4年(1627)に当寺の大改築に着手して現在の寺観を整えた。 崇伝はまた僧録司(そうろくし)となって宗教界全体の取締にあたり、以後幕末まで当寺は僧録司の地位にあった。 方丈(重要文化財)は伏見城の遺構と伝えられ柿(こけな)ぶき入母屋造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。 茶室八窓席(はっそうせき)は小堀遠州の設計で、三帖台目(だいめ)の遠州流茶席として有名である。 方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を持つ唯一の庭園で、寛永9年に完成した名園である。 境内の東照宮(重要文化財)は寛永5年の建築で地方の東照宮の代表的なものである。このほか寺宝には水墨画の名品なども多く文化財を蔵している。

吉田神社

祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはいぬしのみこと)・天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。 貞観(じょうがん)元年(859)藤原山蔭郷が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが当社のはじめである。以来上下の信仰厚く、式外社ではあるが二十二社に加えられ、延文元年(1356)正一位の神階を授けられた。 ついで室町時代の中頃神官吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に斎場所太元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威をもっていた。 本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で朱塗春日造りである。 このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。 境内には太元宮のほか、末社、摂社が多く、中でも神楽岡(かぐらおか)社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除神として有名である。 神竜(かむたつ)社には吉田兼倶を祀っている。 祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び太元宮で行われる)は疫神祭(えきじんさい)・追儺(ついな)式・火炉(かろ)祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統をほこる神事で多数の参詣者で賑う。 ◆斎場所大元宮 天神地八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社3132座を奉祀する。 もと、神職卜部(吉田)家邸内にあったのを文明16年(1484)吉田兼倶がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂をなすものである。天正18年(1590)神祇官八神殿も社内後方に移され、江戸時代より明治4年(1871)に至るまで朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造をもっている。この形式は神仏習合(神道と仏教の折衷調和)、陰陽五行(万物は陰と陽の二気によって生じ、火木は陽、金水は陰、土はその中間にあるとし、これらの消長により大地異変・災事・人事の吉凶を説明)などの諸説を総合しようとした吉田神道の理想を形に現したものといわれる。 当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行なわれる節分祭には多数の参詣者で賑わう。