八坂神社

素戔鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめみこと)およびその御子八柱神(やはしらかみ)を祭神とする。 明治以後八坂社と称し、古くは祇園社と呼ばれ、一般に「祇園さん」の名で親しまれており、全国祇園社の根本神社である。 この神社は貞観18年(876)僧円如(えんじょ)が牛頭天王(ごずてんのう)を迎えたのが起こりといわれ、牛頭天王が素戔鳴尊になって現れたといわれる疫病除けの神である。 疫病流行に際し、京都の人々はこの神を祭って疫神をはらおうとした。 こうして祇園会が始まり、平安時代中期から山鉾巡行も起こり、幾多の変遷を経て現在も毎年7月祇園会が当社の祭礼として盛大に行われる。 一方本殿は平安時代の初め藤原基経(もとつね)がこの地に観慶寺感神院を建て寺内に本殿を設けたのが始まりといわれる。 現本殿(重要文化財)は承應3年(1654)の再建であるが、平安時代末期の様式を伝え祇園造として有名である。 東山通に面する樓門は西門で室町時代の建物(重要文化財)である。 なお、毎年元旦未明に行われるおけらまいりも有名で多数の市民で賑わう。 ◆由緒 素戔嗚尊(すさのをのみこと)・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)及び八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神とする神社で、一般に「祇園さん」又は「八坂さん」として親しまれている。 社伝によると、平安遷都以前の斉明天皇2年(656)にこの付近に素戔嗚尊を祀ったのが当社の起こりといわれている。 京都三大祭の一つである祇園祭(ぎおんまつり)は、毎年7月に行われる当社の祭礼で、平安時代の貞観(じょうがん)11年(869)に各地で疫病が流行した際に、当時の国の数に合わせて六十六本の鉾を立て、神泉苑に神輿を送り、その鎮まりを祈った御霊会(ごりょうえ)(怨霊を退散させる祭り)を起源とするもので、天禄元年(970)ころから毎年行われるようになった。 大晦日の夜から元旦にかけて行われる「をけら詣り」は、薬草である「をけら」を混ぜて焚いた「をけら火」を授かり、新年の無病息災を祈るもので、毎年多くの人でにぎわう。また、1月3日には十二単衣姿の女性による「かるた始め」が行われる。 ◆青龍石の云われ 古くから、八坂神社本殿の位置は平安京の東(青龍の神に護られた土地)にお祀りされています。 陰陽道の思想(風水思想 等)では 青龍は気が集結する場所と考えられ、御本殿の床下の池(龍穴)には大地の気(力)が水と共に湧き出ているとされています。その青龍の地から湧く水で清め 八坂の大神様に供えた 石が「青龍石」も云われです。青龍石をお持ちになり 八坂の大神様の御利益と 平安京の大地の大いなる「力」をお受けください。 青龍石は 御自身でお持ちになると「力」を頂き、家の神棚か、家の中心より東(青龍)の位置にお祀りすると「福」を呼ぶと言われています。 ◆祭神 蘇民将来 むかし祖神(おやがみ)が諸国を巡っては日暮れに宿を請うたところ巨旦将来(こたんしょうらい)は富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しかったけれども粟穀で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので、「われはハヤスサノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが、蘇民将来の子孫は今に栄えています。

東福寺

恵日山(えにちざん)と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎(かてい)2年(1236)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん)(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256)完成した。 その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。 明治14年に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。 三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。 禅堂(禅僧の坐禅所)、東司(とうす)(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。 本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。 ◆由緒 摂政九条道家が、奈良に於ける最大の寺院である東大寺に比べ又、奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日山東福寺である。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費して完成したのである。工事半ばの、寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、先ず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失した。延元元年8月の被災後4ヵ月目には早くも復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経通により仏殿の上棟が行われ、延元の火災以後実に20余年を経て、再び偉観を誇ることとなった。建武被災の直前には既に京都五山の中に列せられていたから、再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。 仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝えたが、惜しくも明治14年12月に仏殿・法堂(はつとう)・方丈・庫裡を焼失した。その後、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9年4月に落成、明治23年に方丈、同43年に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築物に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しているのである。しかも開山国師・画聖兆殿司(ちょうでんす)を中心とする鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぽる。 ◆本堂 昭和9年4月17日落慶、高さ25.5米、間口41.4米、奥行33.3米、用材は台湾阿里山檜、柱に日蓮宗門徒寄進のものがある。聖一国帥の恩に報いて日蓮上人が奇進した前例に従ったもの。天井の画竜は堂本印象氏の力作で、毎年3月14・15・16日に兆殿司の涅槃像図(我国最大)の大幅が掲げられる。 ◆三門 応永年間(1394~1428)の造営とも、その以前、北朝至徳年間(1384~1387)の建築とも言われ、日本最古の三門で国宝に指定されている。足利義持の妙雲閤の扁額(畳3枚大)を掲げ、楼上天井には画聖兆殿司・寒殿司の彩画がある。正面約25.5米。側面10.2米。棟高さ約22米。四隅添柱は秀吉の補強。 鎌倉時代に九条道家が創建した東福寺は、臨済宗東福寺派大本山。「伽藍面」と称されたかつての威容を偲ばせる中世の禅宗建築か今も残る。三門(国宝)は、室町時代再建の禅宗三門としては日本最古で最大の門。高さ22メートル、大仏様・禅宗様・和様を組み合わせた造りで、市内一望の楼上には宝冠釈迦如来像や十六羅漢像を安置する。柱や梁には画僧・明兆(兆殿司)らによる宋・元風の彩色文様が施され、極彩色の天井画が残る。 ◆禅堂(重要文化財) 南北朝時代貞和3年(1347)建立、最古最大の道場である。 ◆浴室(重要文化財) 室町時代の建築で、内部は蒸風呂形式である。 ◆東司(とうす)(重要文化財) 室町時代(15世紀より16世紀前期まで)の建築の便所である。 ◆仁王門(重要文化財) 八脚門で南北朝時代明徳2年(1391)建築、万寿寺の遺構。 ◆愛染堂(重要文化財) 八角円堂、南北朝時代の建築、元の万寿寺のもの。 ◆六波羅門(重要文化財) 平家六波羅第の遺構を移建。 ◆月下門(重要文化財) 月華門とも書き、亀山天皇皇居のものを普門寺(今の普門院)の総門とされた。鎌倉時代文永年間(1264~1274)の建築。 ◆通天橋 普明国師の扁額を掲げ開山堂への歩廊として架設されているが、昭和34年8月崩壊36年11月改架された。両辺は楓樹が多く、通天の三葉楓は宋国の原産である。渓は洗玉澗という。 ◆開山堂(重要文化財) 聖一国師入定の地、塔所。九条道家が国師の為に普門寺を建て更に一条実経が常楽庵を贈った。上層伝衣閣に布袋和尚像を安置し伏見人形の源となっている。 十三重石塔当寺創立祈願の為造立。(重要文化財) ◆方丈・庫裡 方丈は明治23年、同唐門は42年に造営。庫裡は翌年に再建された。唐門・庫裡は昭憲皇太后の恩賜建築である。 ◆方丈庭園 昭和造園の権威重森三玲氏作庭の八相庭で、南庭は禅院式枯山水、東部に北斗七星、西部に大市松模様、北部に小市松模様を表わし、鎌倉期の手法を用いている。 開山堂前にも延宝頃改修の室町期の名園がある。 ◆名宝 東福寺重宝中、国宝重要文化財に指定されているものは、建築の他に仏像23、絵画108、文書・典籍類が260点ある。 ◆聖一国師 円爾辮円といい、三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝について禅戒を受け、嘉禎元年(1235)34才で宋に渡り、在宋6年、杭州径山の無準の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝した。先ず筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243)には藤原(九条)道家に迎えられて入京、道家に禅観密戒を授けた。次いで東福寺開山に仰がれ、同4年(1246)2月には山内の普門寺を贈られて常住した。その後、宮中に宗鏡録を進講し、後深草天皇の勅を奉じて、京都岡崎の尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し、又時には延暦寺の天台座王慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられ、遂に建長6年(1254)には幕府執権北条時頼に招かれて、鎌倉の寿福寺に住することになった。 翌7年6月、一条実経の東福寺落慶供養に当り帰山、爾来東福寺に住し、弘安3年(1280)10月17日79才で入定した。聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので日本禅僧最初の賜号である。中国(宋)より帰朝に当っては多くの文献を伝え、文教の興隆に多大の貢献をしたが、又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し所謂静岡茶の原種を伝えたことも見のがせない功業である。国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は、南禅寺の開山に迎えられ、聖一国師の偉徳を更に顕現した。

三十三間堂(蓮華王院)

現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。 一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。 その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。 長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に1001体もの観音像(重文)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という30体の仏像(国宝)が祀られている。 境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。 ◆由緒 現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。  長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に1001体もの観音像(重文)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という30体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。 ◆三十三間堂(国宝)無限の慈悲・千体の観音立像 中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)と、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手(38本と2組)に表現される。中尊(国宝)は、大仏師湛慶(運慶の長男)82歳の時の造像で鎌倉期(建長6年)の名作と評価される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、後の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年をかけて復興された。 ◆雷神と風神像(国宝) 堂内両端のひときわ高い雲座にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する恐れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰した。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品(国宝)である。 ◆観音二十八部衆像(国宝) 観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像(国宝)は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に彫んで接着し、漆を塗って彩色仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼」という技法が用いられている。 ◆楊枝のお加持と通し矢 「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行なわれる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内にのこる多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、今や正月の風物詩となっている。 ◆日本唯一の千体観音堂 正式には蓮華王院(国宝)といい、長寛2年(1164)鳥辺山麓(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

高台寺

鷲峰山(じゅぶざん)と号する臨済宗建仁寺(けんにんじ)派の寺で、正しくは高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)といい、「蒔絵(まきえ)の寺」として広く知られている。 豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ、ねね、高台院(こうだいいん))が、秀吉の菩提(ぼだい)を弔うため、徳川家康の援助を受けて慶長十一年(1606)に創建した。 創建当時、寺観は壮麗を極めたが、度重なる火災に遭い、現在は、開山堂、霊屋(おたまや)、表門、観月台、茶室の傘(からかさ)亭と時雨(しぐれ)亭が当時のまま残っており、いずれも重要文化財に指定されている。 北政所の墓所である霊屋(おたまや)には、秀吉夫妻の木像が安置され、須弥壇(しゅみだん)及び厨子(ずし)に施された高台寺蒔絵として名高い華麗な蒔絵装飾は、室町時代の漆工芸美術の粋が尽くされている。 開山堂の臥龍池(がりゅうち)と西の堰月池(えんげつち)を中心とする池泉(ちせん)回遊式の庭園は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝えられ、国の史跡・名勝に指定されている。 寺宝として、高台院像(重要文化財)、豊臣秀吉像をはじめ、蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品など、数多くの文化財を蔵し、その一部は、ねねの道をはさんだ「高台寺掌(しょう)美術館」で公開されている。  ◆由緒 東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。 造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたという。 しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で現在国の重要文化財に指定されている。 尚豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に叙せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日76才で亡くなられた。 ◆霊屋(おたまや) 秀吉と北政所をお祀りしているところであり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置している。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。 ◆開山堂(重文) 高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1572~1650)を祀る塔所である。 左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されている。 礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船が用いられている。 ◆臥龍廊 (がりゅうろう) 開山堂と霊屋を結ぶ階段で龍の背に似ている所からこのように名付けられた。 ◆観月台 檜皮葺きの4本柱の建物であり、三方の唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物である。 ◆庭園 庭園は、開山堂の東の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、 ◆傘亭(かさてい)重文・時雨亭(しぐれてい)(重文) 利休の意匠による茶席であり伏見から移建したものである。傘亭は竹が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭とは土間廊下でつながっている。

知恩院

知恩院は、宗祖法然上人が1175(承安五)年、吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山。第二世源智上人により基礎が築かれ、徳川家康、秀忠、家光らの外護により現在の壮大な伽藍が形成された。 境内には、国宝の御影堂や三門、重要文化財の勢至堂、集会堂(法然上人御堂)、大方丈、小方丈、経蔵、唐門、大鐘楼など文化財指定建造物が建ち並ぶ。 三門は1621(元和七)年に徳川秀忠によって建立された我が国最大級の木造二重門。 法然上人の像(御影)を安置する御影堂は、1639(寛永十六)年に再建された中心的堂宇で、2012年から8年間にわたる半解体修理が行われている。 紙本著色法然上人絵伝(四十八巻)、絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図、上宮聖徳法王帝説(いずれも国宝)など多数の文化財を蔵する。 ◆由緒 鎌倉時代に法然上人が居住し、お念仏の教えを説かれた場所です。江戸時代、1639年(寛永16年)に家光公が御影堂(本堂)を、1621年(元和7年)に秀忠公が三門を建立し、現在の寺域が形づくられました。全国に7000余の寺院、600万余の檀信徒を擁する浄土宗の総本山です。 ◆念仏の元祖  法然上人 法然上人は、1133年(長承2年)に、今の岡山県久米郡久米南町に生まれました。恨みのない、報復のない世の中を創ってほしいという父の遺言を果たすために、15歳の時に比叡山に登り、仏道修行にはげみました。「南無阿弥陀仏」を唱えることによってすべてのひとが仏さまに救われるという浄土宗の教えを43歳のときに開かれ、1212年(建暦2年)に80歳でお亡くなりになりました。 ◆三門(国宝) 高さ約24m、桁の長さ約27m、木造の門としては世界最大のスケールを誇る門です。空・無相・無作という3つの教えを表しています。 ◆三門釈迦如来像 三門の中央には釈迦如来像を安置。その天井一面には龍、天人、楽器など雄大で豪華な絵画が描かれ、建立当時のあざやかな彩りを今も伝えています。 ◆唐門(重要文化財) 大方丈入口に構える、左右入母屋檜皮葺の落ち着いた門です。その他、お城のような石組と白壁に囲まれた北門や四脚門など、個性に冨んだ数多くの門を仰見ることができます。 ◆御影堂(国宝) 法然さまの御影をまつる知恩院の本堂。寛永16年(1639)に徳川家光公によって建てられました。中は4干人が入れるほど広々としています。大扉の釘かくしの意匠なども、趣向がこらされています。 ◆阿弥陀堂 どっしりと落ち着いた堂内に大きな阿弥陀さまを安置。安らかな雰囲気が漂い、訪れる人々の心をなごませてくれます。 ◆経蔵 (重要文化財) 中国の唐の文化を日本の建築洋式にとりいれた重層宝形造の建物で、独特の造形美をみせています。中には徳川秀忠公が納めた『宋版大蔵経』六干巻を安置する輪蔵が備えられています。 ◆勢至堂(重要文化財) 法然さまがお亡くなりになられた地で、室町時代に再建された知恩院最古の建物です。現在の御影堂が建てられるまでは本堂でした。法然さまの幼名・勢至丸ゆかりの勢至菩薩がまつられており、念仏発祥の地にふさわしく、穏やかなたたずまいをみせています。 ◆知恩院に伝わる七不思議 1.三方正面真向の猫 大方丈廊下の杉戸に描かれている狩野信政(狩野探幽の養子)筆の猫の親子絵をいう。どちらからみても、見る人を正面から睨んでいるように見える。子猫を庇(かば)っているのである。 2.大杓子 大方丈入口廊下の梁に置かれた大きな杓子をいう。長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。真田幸村の家臣三好清海入道が大阪夏の陣の時に、この杓子を持って暴れまわったとか、数千の兵に飯を振舞ったと伝える。 3.鴬張りの廊下 御影堂裏から集会堂、大方丈、小方丈に至る長さ550メートルもの廊下は、歩くと鶯の鳴き声に似た音が出る。静かに歩こうとすればするほど音がでるので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っている。 4.白木の棺 元和元年(1621)徳川秀忠が建てた三門は、瓦葺、五間三戸の二重門で木造の門としては世界最大の規模。知恩院のシンボル的存在である(国宝)。この楼上に納められている白木の棺の中には、この門を造った棟梁五味金右衛門夫婦の木造坐像が安置されている。棟梁は命がけで三門を造ったが、予算超過の責任を取って夫婦ともども自刃したという。 5.忘れ傘 御影堂正面の軒裏、地上十数メートルのところに、骨ばかりとなった傘が遺されている。伝説の名工左甚五郎が魔除けのために置いたものという。 6.瓜生石 黒門前の道路中央にあり、石柵で囲った大きな石をいう。知恩院ができる前からある石で、八坂神社の牛頭(ごず)天王(てんのう)が降臨して一夜で瓜が生えて実ったとか、二条城へ続く抜け道の出入り口であるとも伝える。また、この石は地軸から生えているとも伝え、節分に自分の年齢よりも一つ多く小石を供えるといった風習があったようだ。江戸期には、この石は瓜生(くはしよう)石(せき)と呼ばれた著名な石。 7.抜け雀 大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたもの。万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりに上手に描かれていたので、雀が生命を得て飛び去ったという。

建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山である。 建仁2年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明菴栄西(みんなんようさい)禅師により創建され、寺名は年号をとってこのように名付けられた。 以後、正嘉2年(1258)に円爾弁円(えんにべんえん)、正元元年(1259)には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第3位を占めるに至った。 勅使門は、俗に「矢の根(やのね)門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長4年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。 寺宝としては、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表作、紙本金地著色風神雷神図、海北友松(かいほうゆうしょう)の紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。 また、毎年4月に方丈で行われる「四頭(よつがしら)の礼(れい)」は、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝えている。 ◆由緒 建仁寺は京五山の一つ、京都を代表する禅寺です。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。 祇園の花街の中にあって、一歩境内に踏み入れればそこはまったくの別世界…静寂な空気が漂っています、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まいは八百年の歴史と禅のこころを感じさせます。 日本最古の禅宗の本山寺院  建仁寺 臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓遣隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。八百年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。 ◆方丈(重要文化財) 慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から移建したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。 本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。白砂に緑苔と巨岩を配した「大雄苑」と称される枯山水の前庭は、大らかな味わいがあります。 ◆三門 溝三門(望闕楼・ぼうけつろう)空門・無相門・無作門の三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闘楼」と名づけられました。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。 ◆浴室 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)によって建立されました。七堂伽藍のひとつで、内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分されています。 湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められています。 ◆勅使門(重要文化財) 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ぱれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています。 ◆襖絵 桃山画壇の巨匠・海北友松(かいほうゆうしょう)は建仁寺と関係が深く、彼の描いた襖絵「竹林七賢図」「雲竜図」「花鳥図」等が文化財として建仁寺に数多く残されています。 また、「生々流転」「伯楽」「深秋」「松韻」など、大正から昭和にかけて活躍した橋本関雪画伯(1883-1945)の晩年の傑作も目にすることができます。 ◆茶席「東陽坊」 草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。 二帖台目席で最も規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています。 ◆法堂(はっとう) 明和二年(1765)上棟。仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。 正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています、また、その天井には平成十四年(2002)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。 ◆風神雷神図(国宝)俵屋宗達筆 紙本金地著色 本図には落款も印章もありませんが、俵屋宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされています。 二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いています。 ◆潮音庭 本坊裏にある潮音庭は、中央に三尊石その東には座禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります。 石組みは東西の渡り廊下を越え、大きな渦潮の流れを形成し見る者をつつみこんでくれます。 作庭/小堀泰巌老大師 監修/北山安夫 ◆建仁寺の主な年中行事 3月15日/涅槃会=釈尊が涅槃に入られた(亡くなられた)事に対する法要。 4月8日/仏誕生会=釈尊の誕生日の法要「花まつり」。 4月20日/開山降誕会(四頭茶会)=栄西禅師の誕生を祝する法要。禅院の茶礼が催される。 6月5日/開山忌=栄西禅師入寂の忌日に厳修する法会。 7月30日/布薩会(ふさつえ)=戒律を守ることに厳格であった栄西禅師伝来の法会。 8月18日/頼家忌=開基の鎌倉二代将軍・源頼家の忌日法要。 11月5日/達磨忌=中国における禅宗の始祖・菩提達磨尊者の忌日法要。 12月8日/成道会=釈尊が苦行の後、明星を見て大悟された事に因み行う法要。 毎月第2日躍/大衆禅堂開設=本坊で午前8時からの2時間。座禅と法話 禅の心と茶の徳を伝える ◆開山栄西禅師 開山の栄西という名の読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般的には「えいさい」と読まれています。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14才で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。 また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。

地主神社

「えんむすびの神さま」として知られる地主神社は三年坂から歩いて5分、清水の舞台を出ると、すぐ左手にあって、修学旅行生や、えんむすびの祈願に訪れる参拝者で年中賑わっている。 特に境内にある「恋占いの石」は、若い男女はもとより、海外からの参拝者にまでたいへんな人気である。 創建期は不詳で神代(日本の建国以前)とされ京都でも最古の歴史がある。本殿・拝殿・総門・境内地が国の重要文化財指定で、世界遺産に登録されている。 1633年(寛永10)徳川家光が再建した本殿は極彩色の華麗な建物で入母屋造りと権現造りを折衷したもので、双堂という奈良時代の様式を今に伝える。 境内は桜の名所で知られ謡曲「田村」「熊野」にもうたわれた名桜「地主桜」がある。 ◆由緒 清水八坂一帯の産土神(うぶすなかみ)で、元は地主権現とよばれ、明治維新後に現在の名に改めた。祭神として、大国主命(おおくにぬしのみこと)とその父母神素戔鳴尊(すさのおのみこと)・櫛名田姫(くしなだひめ)ら五柱を祀る。  創建は奈良時代以前であり、平安遷都と共に皇室をはじめ広く信仰を集めた。天禄3年(972)の臨時祭には、円融天皇が行幸し、その後も歴代天皇の行幸が伝えられている。  現在の社殿は、清水寺本堂と同様寛永年間(1624~1644)の徳川家光による再建で、桃山時代の様式による華麗な建物である。本殿、拝殿、総門はいずれも重要文化財に指定されており、拝殿天井の龍の画は狩野元信の筆と伝えられている。境内には桜樹が多く、「地主(じしゅ)の桜」と呼ばれ、古くから桜の名所として有名で、謡曲「田村」、「熊野(ゆや)」、小歌集「閑吟集」などにもしばしば登場する。  また、縁結びの神として広く崇敬をあつめている。 ◆恋占いの石 ご本殿前の左右にある守護石で両目をとじて反対側の石にたどりつくことができれば恋の願いがかなうという。 一度でできれば願いも早くかない、できなければ願いがかなうのも遅れるという。また友人などのアドバイスをうけると願いを成就するにも人の助けがいるという。

安井金比羅宮

祭神として崇徳(すとく)天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。 社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。 その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦(うずまさ)安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。 本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢(そけん)等の作品も含まれている。 また、境内にある「久志(くし)塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月の第四月曜日に櫛祭(くしまつり)が行われる。 ◆悪い縁を切る 縁切り縁結びの碑(いし) 当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されると云う故事にに習い江戸時代より断ちもの祈願のならわし続けられ縁切り祈願が生まれました。旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を甦がえらせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。 上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)それぞれ心に祈りを込めてくぐりぬけて下さい。くぐりぬけられた後に、神札を石面に貼ってください当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行いお清めをつづけて参ります。

青蓮院門跡

三千院、妙法院と並ぶ天台宗三門跡の一つで、天明の大火(1788)の際に仮の御所となったことから、粟田御所(あわたごしょ)とも呼ばれる。 最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊(しょうれんぼう)」に始まるとされ、平安時代末期の行玄(ぎょうげん)のときに三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が門主(住職)を務める「門跡寺院」となった。 歴代門主のうち、三代の慈円(じえん)は歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」の著者として有名で、十七代の尊円入道親王(そんえんにゅうどうしんのう)は和風と唐風を融合し青蓮院流(のちの御家(おいえ)流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。 境内全域が国の史跡に指定されたおり、粟田山(あわたやま)の山裾(すそ)を利用した庭園は、龍心池(りゅうしち)を中心とした優美な池泉(ちせん)回遊式庭園で、主庭は相阿弥(そうあみ)の、霧島の庭は小堀遠州こぼりえんしゅう)の作と伝えられている。また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞上人(しんらんしょうにん)のお手植えと伝わる巨大な五本の楠(くすのき)(京都市登録天然記念物)がある。 寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動(あおふどう)」の名で知られる「不動明王二童子(ふどうみょうおうにどうじ)画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚大日堂(だいにちどう)を有し、そこからの京都市街の眺めは格別である。  ◆由緒 天台宗の門跡寺で、代々入道親王か摂関家の子弟が継承して天台座主となった。法然を庇護し親鸞の師であつた慈圓(慈鎮和尚)(藤原忠通の子、1155~1225)や、御家流の書道を大成された尊圓親王(伏見天皇の皇子、1298~1356)、維新史上著名な青蓮院宮尊融親王即ち後の久邇宮朝彦親王(伏見宮邦家親王王子、1824~1891)は当院の門主である。後櫻町上皇は天明の皇居炎上後仮仙洞として当院を御使用になり、庭中の好文亭は御学問所となった。 明治元年10月明治天皇の始めての江戸行幸の時には、京都御所御出発後最初の御小休所が当院で、宸殿に玉座が設けられた。その後の変革期に宸殿大玄関附近は京都府立療病院・医学校にあてられ明治13年まで続いた。 尊融親王が各方面の志士と応接され、御住居であつた叢華殿、上記好文亭、住吉派の障壁画、室町江戸の庭園、内裏より移された江戸初期の四脚門、幾度かの災害を経ながら旧態を伝えようとしている建築群等を、門跡寺としての特殊な寺院の在り方を念頭に置いて御覧いただきたい。 ◆史蹟青蓮院旧仮御所 青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都にある五つの門跡寺院を五ヶ室と呼んでいるその一つである。 日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山を開くにあたっては、山上に僧侶の住坊を幾つも造ったが、その一つの青蓮坊が青蓮院の起源である。比叡山の東塔の南谷即ち現在大講堂の南の崖下に駐車場用に整地された所がその故地である。 伝教大師から円仁(慈覚大師)、安恵、相応等延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であったと思われる。その第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりで、即ち行玄は門跡寺としての青蓮院の第一世、その皇子が第二世門主覚快法親王である。 山上の青蓮坊はそのまま青蓮院の山上御本坊と称されて室町時代迄は確実に維持されて居り、門主が山上の勤めの時の住坊となっていた。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族であるか五攝家の子弟に限られた。 当院は平安時代の末から鎌倉時代に及ぶ第三世門主慈圓(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)の時に最も栄えた。慈圓は天台座主を四度つとめてその宗風は日本仏教界を風靡し、皇室の尊信極めて篤く勅旨による修法を始め仏事に尽した功績は数限りないが、又日本人始めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として『拾玉集』を我々に示している。 台密の巨匠である反面、浄土宗の祖法然・真宗の祖親鸞を庇護し、法然の寂後時を経てその門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈圓が法然に与えた院内の二房の跡で、之が知恩院の起源となった。 親鸞は九歳の時に慈圓について当院で得度し、寂後院内の大谷(現在の知恩院の北門の傍の崇泰院の地)に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起りである。それ故本願寺の法主は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、又当院の脇門跡として門跡を号することが許された。 慈圓は後鳥羽上皇から托された朝仁親王(入道道覚親王)を所謂瀉瓶の弟子としてすべてを譲る考へであったが承久の乱が起って鎌倉幕府に阻まれ、寂後二十数年して漸く道覚親王は衆望を担って第六世門主となり天台座主となられた。 爾来青蓮院は入道親王入寺の寺であることを誇りとして明治に至った。中でも第十七世入道尊圓親王は伏見天皇の皇子のこととて書道に秀でられ、和風唐風を融合した日本独特の書風を樹立され、その後の歴代門主も皆尊圓親王の書風をよくして永く日本書道界に君臨した御家流の家元となった。 応仁の乱の兵火を免れず、徳川氏には豊臣氏減亡後今の知恩院の全域を取上げられたが、相阿弥の作と伝える龍心池を中心とする室町時代以来の庭園から粟田山将軍塚にわたる境内は今日まで保有され、徳川幕府も殿舎の造営には力を致して東福門院の旧殿を移して宸殿を造った。 後桜町上皇は天明の皇居炎上後青蓮院を仮御所と定められ、庭内の好文亭は御学問所として御用いになった。平成五年四月おしくも焼失したが平成七年十一月に完全復元修理された。多くの国宝重要文化財中、青不動明王画像は日本三不動の一つとして特に知られ、御宸翰、古文書、奈良時代より室町時代にわたる台密を主とする聖教を蔵している。 ★不動明王は密教のほとけであるので、五色(青・黄・赤・白・黒)に配せられることがある。赤不動・黄不動・目黒不動・目白不動等はその例である。 その中にあって青色は方位に配せられゝば中央、五大に配せられると大日如来の三昧耶形である五輪塔婆の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心にあるのである。即ち不動明王の中の不動明王といふ地位を占める。 当院の青不動明王画像は誠にこの青不動明王の性格にふさわしい威厳と荘厳さを持ち、三不動の他の二作と比べても典型的な体裁を具備している。青不動明王の性格から云っても、亦本画像の優秀さから見ても、当院の青不動明王を如法に供養し奉る時の功徳の甚大なことは云はずして、明らかなことであるが、国宝中でも特に保存の為に厳しい条件がつけられているので、完全な複製の製作とそれを祀る青不動明王堂の建立の計画を進めている。 維新史上著名な青蓮院宮入道尊融親王は、孝明天皇の勅によつて復飾後は中川宮と称せられ、新後久邇宮の称号を賜り神宮祭主となられた朝彦親王で、皇太后陛下、東伏見慈治現門主等の兄弟の祖父である。因に門主は信州善光寺の名誉貫主を兼ねている。 ◆青蓮院庭園 青蓮院庭園は粟田山の山裾を擁して造られ幽邃雅趣深く、室町時代に相阿弥の作るところと伝えている。また叢華殿の東面の庭は霧島の庭と称して、好文亭裏側の山裾斜面から一面に霧島つつじを植え、その間に梔子・馬酔木等を点植して色どりを添えている。この庭を小堀遠州の作と伝える。 又好文亭の一廓は自ら別の雰囲気を作っているが、之を大森有斐の作という。大森有斐については年代も経歴も、亦他に作品があるかないかも知られていない。いづれも確証はないが、粟田山の美しい山麓の環境を巧に利用して作られた名園の名にふさわしい庭園である。 現況からは室町時代の作庭手法を見ることはできないが、江戸時代の特に遠州作と称されている庭園の作風に好みが共通した点は認められる。青蓮院が皇室に関係の深い由緒ある寺院であるだけに、その優雅なたたずまいにふさわしく庭園全体の構成が格調の高い優雅さで包まれている。 この庭園の主庭は小御所と客殿並びに好文亭の三建物で囲まれた池を中心とした部分の庭である。池の対岸南に粟田山の山裾を利用して高く石組した滝口を中心とし、池の東側には土佐派の絵画或は宗達の絵に見られるような、やわらかな曲線を画いた築山が設けられて、その北側には好文亭が建っていた。 池の南は池汀が小御所の高欄の下に入り込むように接して南へ山裾と建物の間を細長く延びている。小御所に近く池のやや狭まった部分に花崗岩の切石二枚で作られた半円形の反りの美しい石橋が架けられている。この石橋を跨龍橋と呼び、池を龍心池と名付け、滝口を洗心滝という。これらの配置は誠に妙を得、意をこらしたものである。 龍心池の中央には二千貫に近い大石を池水に浮かぶが如くに据えてある。極めて名石であって、あたかも沐浴する龍の背の水面にみゆるが如き感じである。滝口に相対して池の西岸には一枚の大きな青石の拝礼石が据えられている。 こうしたこの庭の形態を観察すると、平安時代から日本庭園の形態の主流をなして来たところの築山泉水庭の形式を踏襲しているが、滝口の作られる山裾を利用した築山の他に、池の岬となる部分がそのまゝ高くいま一つの築山となっており、池の中央に中島に代って大きな庭石を据えているのは、これまでの定石を破った形態の庭となって面白い趣向である。しかしこれらのことが少しも奇をねらった嫌味をともなっておらず、品格ある調和を保っていることは、この庭の作者が優れた手腕の持ち主であることをよく物語っている。 滝口上から樹木は山裾斜面を一面に覆うが如く繁った多数の山紅葉を交ぜ、四季を通じて見事な景観を見せている。 池汀および山に組まれた庭石は、京都近郊の山石と紀州の青石を主として用い、美しい皺と色彩感のある比較的華やかな石が選ばれ、石組の手法もやわらかで絵画的である。 小御所の建物近く渡廊下に面して巨大な一文字の白然石の手水鉢が置かれて、力強い見事な役石と景石が組まれて雄揮な気風がみなぎっている。この手水鉢は伝えによれば豊臣秀吉の寄進になる「一文字手水鉢」といわれ著名である。{以上造園学の権威中根近作氏の文による}  霧島の庭には同じく秀吉の寄進と伝える「神輿形燈籠」があるが、この方は少し時代の下るものゝ様である。 小御所と池を隔てた所にある「立田山の楓」、華頂殿の東南角に植えられた「宮城野の萩」は、共に西行法師が門主慈圓大僧正に携へ来って贈ったものと伝えられる。鎌倉時代の古図にも特に図示されて、古来有名であった。勿論幾度となく植え継がれたであろうが、四十年程前萩が枯れた時に、仙台市の方が現在の宮城野の萩を送られ、又数代前の門主が信州の伊那の光前寺へ株分けされたものがあることを知って、その一株を譲り受けて植栽したところ全く同一種であった。年々夏から秋にかけて二回可憐な花を咲かせている。普通の萩とは違ふ種類のものである。