西本願寺(お西さん)

浄土真宗本願寺派の本山。1272年(文永9)宗祖・親鸞聖人の末娘覚信尼が京都の東山大谷に建立した廟堂に始まる。 第3代覚如上人のときに本願寺と公称。 第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展。 その後、寺地は大阪、和歌山を転々とした後、1591年(天正19)豊臣秀吉が寺地を寄進、現在地に移った。 1602年(慶長7)本願寺は東西に分立。 御影堂と阿弥陀堂はともに国宝。書院の庭園(特別名勝)は桃山文化を代表する枯山水様式。 その他、わが国最古の能舞台となる北能舞台、唐門など桃山文化を今に伝える国宝建造物を多数擁している。 美術関係では三十六人家集(国宝)などを所蔵。 1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録された。 ◆由緒 本願寺は、すべてのものが阿弥陀如来の本願によって救われる念仏の教えを説く、宗祖「親鸞聖人」によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、通称「西本願寺」と言われています。 当初、本願寺は親鸞聖人の廟所(墓地)のあった京都東山の大谷に創建されました。その後、山科、大坂(大阪)など各地に寺地を移しましたが、天正十九年(1591)豊臣秀吉によりこの地の寄進を受け、現在に至っています。 伽藍は移転後直ちに整備され、寛永十年(1633)頃には、ほぼ今日に近い姿となりました。御影堂や阿弥陀堂(本堂)はともに重要文化財に指定され、世界最大級の木造建築です。 その他、境内には、安土桃山時代から江戸時代前半(16世紀後半から17世紀前半)頃の文化を代表する飛雲閣や唐門、対面所、白書院などの国宝や、数々の重要文化財、特別名勝の虎渓の庭などが今日まで多く遺されています。 平成六年(1994)十二月には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づき、世界文化遺産に登録されました。 ◆御影堂(重要文化財) 寛永13年(1636)建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メ一トル。現在、平成23年の親鸞聖人750回大遠忌に向け、10年間にわたる大修復工事を行っております。 ◆阿弥陀堂(総御堂)(重要文化財) 宝暦10年(1760)再建。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に本尊阿弥陀如来像、また、左余間は現在、仮御影堂とし、親鸞聖人の御真影を安置しています。 ◆唐門(国宝) 桃山時代の伏見城の遺構といわれ、豪華な装飾彫刻を全体に施した四脚門である。建築細部にみられる彫刻は、これを丹念に跳めていると、日の暮れるのを忘れるといわれ、たとえて「日暮門」といわれている。 ◆対面所(鴻の間)(国宝) 203畳の大広間。上下両段に分けられ、その境の欄間に雲中飛翔の鴻の鳥の彫刻があるので「鴻の間」ともいう。上段・上々段の床を設け、違棚・附書院・帳台構など華麗重厚なこの書院は、わが国の書院建築を代表する大書院である。障壁画はいずれも狩野了慶の筆。 ◆飛雲閣(国宝) 境内の東南隅にある滴翠園に建つ飛雲閣は、三層柿葺の楼閣建築で、聚楽第からの移築と伝えられる。外観は、唐破風や入母屋など変化に富んだ屋根を巧みに配し、左右非対称の妙を見事に作り上げている。一階は招賢殿や八景の間・舟入の間などからなり、二階は歌仙の間と呼ばれ三十六歌仙が描かれている。三階は摘星楼で、星を摘む楼閣という縞麗な名が意を得ている。

興正寺

真宗興正派の本山。文明年間(1469-87)佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改め、山科に一宇を建立したのが起こり。 佛光寺の旧称によって興正寺(興隆正法寺)と称した。 その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、1591年(天正19)現在地に移った。西本願寺の南隣。

佛光寺

真宗佛光寺派の本山。 1212年(建暦2)越後に流罪になっていた親鸞聖人が一時帰洛されたとき、高弟源海上人が山科に創建した寺院を起源とする。 7世了源上人のときに東山渋谷に寺基を移転する。 その時、ご本尊の阿弥陀如来像が盗難に遭うという事件が起こるが、時の天皇、後醍醐天皇の夢の中に盗難された阿弥陀如来像の瑞光が現れ、その光をたどってご本尊を取り戻すことができた。 このことにより後醍醐天皇から「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜ったという。 1586年(天正14)、豊臣秀吉公が方広寺建立のとき、代替地として現在地に寄進され移転する。 阿弥陀堂に安置する聖徳太子像は重要文化財に指定。

市比賣神社

延暦14年(795)、藤原冬嗣が垣武天皇の命により、官営市場東市・西市の守護神として創建。中世には空也上人が神託により市屋道場を開創。 一遍上人が境内で踊り念仏を遊行。天正19年(1591)に現在地へ移転。現在も京都中央市場の守護神。 境内天之真名井の水は歴代天皇の産湯に用いられ、現在も名水として茶会等に用いられる。 また、皇族・公家が生後50日目には五十日餅を授かり、今も旧家では当社より餅を頂きお食べ初め発祥の神社、母神が童神を抱いた御神像は、慈愛に満ちた大変珍しい姿で、平安時代、花山天皇の作 御所守護の為、本殿は北向き(御所向かい)歴代皇后の崇敬篤く、女人守護の神社で特に女性厄除けに御利益がある。 ◆由緒 祭神は神大市比賣(かみおおいちひめ)命・多紀理比賣(たきりひめ)命・多岐都比賣(たきつひめ)命・市寸嶋比賣(いちきしまひめ)命・下光比賣(したてるひめ)命の五女神を祀る。  平安京が制定された翌年の延暦14年(795)東西市(常設市場)の守護神として七条堀河の地に創建され、天正19年(1591)に現在地に移された。 皇族誕生の際には、境内の「天之真名井(あまのまない)」の水を産湯に用い、また、平安時代より、生後50日目の子供に当社で「五十日百日餅」を授ける風習がある。  安徳天皇の記録を初め、花山院家・足利家歴代の史記にも見られ、現在の「お食初め」発祥の神社といわれる。 秘蔵の女神像は平安時代の作で、母神が童神を抱いた慈愛に満ちた大変珍しい姿であり、創建以来歴代皇后の信仰を集め、特に女性の「厄除け」に神徳が高い。

観智院

教王護国寺(東寺)の塔頭(たっちゅう)(小院)の第一で、別格本山である。延慶元年(1308)後宇多法皇が東寺西院に3年間参籠され、21院を建立されたうちの一つで杲宝(ごうほう)を開基とする。 代々学僧が住し、東寺塔頭中もっとも格式が高く、当院の住持が東寺の別当職をかねた。 古来多くの経文、書籍を所蔵していて有名で、徳川家康が古書を調査して、一宗の勧学院として後学の用に供するよう命じたことがある。 現在の建物は、慶長10年(1605)完成の客殿を中心に、本堂、書院、土蔵、門など何れも江戸時代の建築である。客殿(国宝)は、入母屋造、銅板葺の代表的な書院造の住宅建築で襖絵は宮本武蔵の筆と伝えられる。 本堂には山科安祥寺の恵運(えうん)が唐から伝来した五大虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)を安置していたが、現在は国宝に指定されている経文、書画、工芸の名品多数と共に東寺収蔵庫に収められている。

上徳寺 (世継地蔵)

塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。 寺伝によれば、慶長八年(1603)に、徳川家康によって、上徳院殿(阿茶の局)が開基となり、伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した寺といわれる。寺内に泰栄院の宝筐院塔がある。 以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。 本堂は、宝暦三年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したものである。 堂内には、江州矢橋(やばせ)(滋賀県)の鞭崎(むちざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置している。 境内の地蔵堂は、明治四年(1871)に再建され、高さ二メートル余の石地蔵を安置している。 この地蔵は、「世継(よつぎ)地蔵」と呼ばれ、往古から、良い世継が授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。 また、境内には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内(ほりうち)雲鼓(うんこ)(1728年没)の句碑及び墓がある。

文子天満宮

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社の一つに数えられている。 社伝によれば、大宰府(だざいふ)(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。 しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。 これが当社の起りで、北野天満宮の前身ともいわれている。 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。 現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。 なお、毎年4月16日には、例祭がとり行われる。