御香宮神社

平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇からこの名を賜ったという。 桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重文。 神功皇后ほかを祀り、豊臣秀吉は伏見城の守り神とした。 書院の庭は、小堀遠州ゆかりの石庭。鳥羽伏見の戦いでは薩軍の屯所に。 10月上旬の9日間におこなわれる神幸祭は「伏見祭」といわれ伏見随一の祭。 獅子一対・神輿3基、武者行列のほか、多数の氏子が出仕しての行列がある。 1日目、8日目夕方から趣向をこらした大小の花傘が氏子各町から「アラウンヨイヨイ…」のかけ声で参加し、夜遅くまでにぎわう。

貴船神社

創建年代不詳。水の供給を司る神「たかおかみのかみ」を祀り、歴朝はじめ現在も農漁業、醸造業者らの信仰が厚い。 社殿は1055年(天喜3)元々の御鎮座地より現在の本宮の遷へ移されたという。 元々の御鎮座地は奥宮としてお祀りされている。古くから「氣生根(きふね)」とも表記され、氣力の生ずる根源の地であると信仰される。御神徳は運気隆昌、諸願成就。 また、平安時代の女流歌人、和泉式部も参詣し、不和となった夫との復縁祈願が成就した逸話があり、えんむすびの神としても若い世代より絶大な崇敬を集めている。 水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。 江戸時代には賀茂別雷社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。 本殿、拝殿、権殿(ごんでん)等があり、本殿は文久3年(1863)に改修された。川に沿って上ると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船石といって船の形に積んだ石墨がある。

三千院

天台宗の門跡寺院で、伝教(でんきょう)大師が比叡山に一宇を建てたのに始まり、その後、近江東坂本・その他に移り、天正年間(1573~1592)この地に移った。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、寛和元年(985)の建造と伝え、舟底の天井で名高く、内陣に金色丈六の阿弥陀如来坐像・観音勢至の両脇侍(重要文化財)を安置する。池泉廻遊(ちせんかいゆう)式の庭園有清園は、茶人金森宗和の作庭といい、宸殿の虹の襖絵は下村観山の丈作で、客殿の襖絵は竹内栖鳳(せいほう)等、近世画家五氏の筆である。 ◆由緒 大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた所です。 三千院は別名を梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡のひとつであります。 門跡寺院とは、皇子皇族が住職になられた御寺で、当院は宮門跡であります。開基は伝教大師最澄上人(767~822)で、本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 移りゆく自然と歴史のなかで、御参拝の皆様には心安らかなひとときが得られることと存じます。ようこそお参り下さいまして、ありがとうございます。 ◆往生極楽院 平安時代の寛和2年(986)に建立された三千院の源ともいえる簡素な御堂。恵心僧都が父母の菩提のために姉安養尼とともに建立したと伝えられます。御堂内部の、船底天井および壁画は極楽の花園の図を、極彩色で描いております。単層入母屋造柿葺で、阿弥陀如来座像を中心に、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。いずれも正座しています。 それはちょうど、掌をあわせて皆さんをあたたかくお迎えして、「どうぞ私の掌にお乗り下さい。苦しみの世界から楽しみの世界にお連れいたします。」と言っているお姿なのです。 ◆庭園 客殿・見所台からは聚碧園、宸殿からは往生極楽院に通じるところに有清園の庭園がそれぞれみえます。とくに杉木立と苔、紅葉は見事です。 ◆客殿・円融房・宸殿 客殿には鈴木松年、竹内栖鳳など明治の京都画壇を代表する日本画家の襖絵や古文書を観ることができます。また客殿から見所台を通って法話を聞いたり、希望者は写経ができる円融房があります。 宸殿内仏には恵心僧都の阿弥陀如来、救世観音菩薩、不動明王(いずれも重文)をお祀りしております。玉座の間は虹の間とも呼ばれていて、下村観山の筆になるものです。 宸殿は歴代住職、有縁無縁の方のご回向法要を行います。とくに毎年5月30日には、後醍醐法皇から伝承されている御懺法講(声明による法要)を奉修する道場でもあります。 ◆金色不動堂 平成元年に建立されたご祈願の根本道場。堂内には、長い間秘仏であった金色不動明王(智証大師作)を本尊としてお祀りしています。 ◆観音堂 二十五菩薩を中心に、補陀落浄土に模した石庭のかたわらに、身の丈3メートルの観音像が奉祀され、またご縁の方の小観音像がその両側に安置されています。奉安のご希望の方は係員までお申し出下さい。

鞍馬寺

奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、宝亀元年(770)正月4日に、白馬(あおうま)が鞍を置いて雲中にあるかのようなたたずまいを、この山容に感じて霊地と定め、さらに毘沙門天を感得してその姿をまつったのがこの寺のはじまりである。 4600

毘沙門堂

護法山出雲寺と号する天台宗の門跡(もんぜき)寺院である。 大宝3年(703)創建と伝え、延暦年間(782~805)伝教大師(でんぎょうたいし)が下出雲路(しもいずもじ)で自ら作った毘沙門天を安置して下出雲路寺と名づけ、天台宗をひろめたので、世人はこれを毘沙門堂と呼んだ。 中世以降、たびかさなる戦乱で荒廃し、天正年間(1573~91)に織田信長の兵乱で堂宇を全焼した。 慶長16年(1611)に天海僧正が後陽成天皇の勅命によって再興をはかり、中途で天海が亡くなったため、その高弟公海が遺志を継いで寛文5年(1665)に再建され、以来、代々法親王が入室されて毘沙門堂門跡と称された。 本堂には伝教大師作の毘沙門天を本尊としてまつっている。 ◆由緒 毘沙門堂は、護法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院である。建久6年(1195)、平親範が平等寺、尊重寺、護法寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したのに始まる。中世後半には荒廃したが、寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜り、さらに元禄・宝永年間には公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。 本堂は将軍家綱が大檀越となり、また紀伊と尾張の徳川家からは材木が寄進されて、寛文6年に竣工した。全体に漆塗や彩色、彫刻が施されて、豊かな装飾に特色がみられる。本堂の前方に建つ唐門、仁王門は共に本堂と同時期のもので、和様と禅宗様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上17世紀後半のものと考えられる。 これら寺院としての施設に対して、境内の西寄りには宸殿をはじめとする門跡の住居施設が並ぶ。宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が接続する。各室は金碧障壁画(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を次の間としている。一部改造されているものの、近世門跡宸殿の典型を示すものである。また、この前方に建つ勅使門と薬医門は18世紀初期の造営になる。 毘沙門堂のこれらの一連の建築群は、近世門跡寺院の景観を伝えるものとして貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。

随心院

真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第8世の法孫仁海(にんがい)僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といった。 当院は真言宗小野流発祥の地であって、第5世増俊が塔頭に随心院を建立し、第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。 その後、応仁の兵火で炎上したが、慶長4年(1599)九条家から入った第24世増孝が再興し、今日にいたっている。 本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩像のほかに、阿弥陀如来像(重要文化財)及び快慶作の金剛さった像等を安置する。 書院は徳川秀忠(ひでただ)夫人天真院尼の寄進である。 この附近は、小野小町の旧跡と伝え、境内には小町文塚、化粧の井戸があり、小町の艷書をはったという地蔵菩薩も安置されている。 なお、境内地は昭和41年6月21日文化財保護法による史跡に指定された。 真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんがい)僧正が正暦2年(991)に創建した。 もとの名は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。 その後、第五世増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として隨心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。 この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町(こまち)に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚(ふみづか)や、化粧の井戸などが残されている。 梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通(ももよがよ)いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。 ◆由緒 当山は、真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。 古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。 牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回も修法し、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。 その後、第五世増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。 堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。 その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建されました。 ◆謡曲「通小町」と随心院 謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。 その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。 積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。 少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。 通いつめた九十九夜-その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。 隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には榧の大木”がある。 ◆小町の史蹟 一.卒塔婆小町坐像 恵心僧都 作 小町晩年の姿を写したと言われる坐像 二.文張地蔵尊像 伝小野小町 作 小町に寄せられた文を下張りにしていると言われる地蔵尊像 三.極彩色 梅匂小町絵図 グラフィックアートユニットだるま商店奉納作品。 生誕地から当地に至るまでの、小町の一生を描いたもの。 四.小町榧 深草少将の百夜通いに登場する、小町が捲いたとされる榧の実。イチイ科。 五.文塚 深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めた塚と伝えられている。 六.化粧井戸 小野小町の屋敷跡に残る井戸で、小町が朝夕この水で粧をこらしたと、「都名所図絵」に記されている。

勧修寺

亀甲山(きっこうざん)と号する真言宗山階派の大本山である。 寺伝によれば、昌泰3年(900)醍醐天皇が、生母藤原胤子(いんし)の御願により創建したと伝え、寺号は、天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(い)号をとって勧修寺と名付けられた。 本堂は、江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を、書院と宸殿は、明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内に千手観音像を祀る。 庭園は、氷室池を中心とした池泉回遊式庭園で、夏には、池の水蓮が美しい花を咲かせる。 ◆由緒 勧修寺は昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。 庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、且つ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」です。古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀豊凶を占ったと言われ、京都でも指折りの古池である。 書院の前庭にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」と言い、水戸黄門さまらしいユーモラスなスタイルを以て有名なものです。又この灯篭を覆うように生えている植樹「ハイビヤクシン」は、「ひの木科」の常緑灌木で樹齢は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。

龍安寺

臨済宗妙心寺派に属する。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、義天玄承(ぎてんげんしょう)を請じて禅院とし、義天はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を奉じて開山として、自らは2世となった。 一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)、細川政元が再興、その後名僧が相ついで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。 しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興しなかった。 方丈庭園(特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名園として有名である。 長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。 あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 その他、寺宝には、太平記12冊(重要文化財)などがある。 ◆由緒 臨済宗妙心寺派の寺院で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)に細川政元が再興し、その後、名僧が相次いで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。 方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 方丈の東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知」と刻まれた石造りの手水鉢がある。そのほか、寺宝として、太平記12冊(重要文化財)などを所蔵している。 現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。 ◆石群の鑑賞 石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、 信条によって多岐に解されている。 ◆庫裡 石段の正面の建物が庫裡で、禅宗寺院建築の簡素にして重厚、特に木組と白壁の調和がま た静寂の内に構成美をかもしだしている。 ◆鏡容池 この池は徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりが群れ遊んだところからお しどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後のひとめぐりも、何がなしぽっと心が和むのを覚えるの は、水の効果というものだろう。池の堤防からは龍安寺全景の山々が古来の姿そのままに 眺望され、四季それぞれの美しさは又格別である。 ◆つくばいと佗助椿 方丈の北東に据えてある銭形のつくばいは、一見“五、隹、止、矢"の文字に読まれるが、 中心の口を共用すれば、“吾唯足知“(ワレタダタルヲシル)と成り、禅の格言を謎解き に図案化された無言の悟道である。徳川光圀の寄進といわれている。秀吉が賞讃したと今 も伝えられる佗助の老樹が枯淡で景趣をそえている。 ◆茶室蔵六庵(非公開) 方丈から東庭を隔てた東北隅の茶室を蔵六庵という。蔵六という語は亀の別名で、頭・尾 ・四肢の六つを甲羅の中に隠すのでこの名がつけられた。江戸初期の茶人不遠庵僖首座の

仁和寺

真言宗御室派総本山。 886年(仁和2)、光孝天皇の勅願により創建、888年(仁和4)に完成。 年号を寺名とした。宇多天皇が落髪入寺し寺内に御室(御座所)を設け、御室御所とも呼ばれた。 以後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡となり門跡寺院の筆頭にあった。 堂塔伽藍は応仁の乱(1467-77)で多くを焼失、寛永年間(1624-44)に再興した。 金堂(国宝)は御所紫宸殿を移築。御影堂(重文)も旧清涼殿の材を用いて建立した。 霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、孔雀明王像(国宝)、三十帖冊子(国宝)など多くの寺宝を所蔵。 遅咲きの‘御室桜’は有名で名勝。 旧御室御所御殿の御所風たたずまい、豪華な襖絵が見事。 1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。 ※孔雀明王像と弘法大師の真筆三十帖冊子については展示予定無し 真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、30余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。 以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓に仮御所をもうけた時期もあった。 現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移して金堂(国宝)をはじめ、御影(みえ)堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。  西門から成就山の麓にかけて、四国八十八ヶ所霊場を縮小した「御室八十八ヶ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室(おむろ)の桜」(名勝)が見られる。 ◆名勝御室桜 中門を入ると左手に、湧き上がる雲のような御室桜が目に飛び込んできます。 御室桜の特徴は樹高が低く、根元より単弁の香りの高い白花を咲かせることです。 開花は4月20日前後と遅く、京都の春の終わりを飾ります。品種は大半が有明で、他には車返し、欝金(うこん)など十数種類の里桜があり、境内に二百余株植えられています。起源は古く、平安時代にまでさかのぼりますが、現在のものは江戸時代初期に植えられたもので、大正13年に名勝に指定されています。 ◆由緒 仁和2年(886)第58代光孝天皇は、都の西北大内山の麓に「西山御願寺」という一寺の建立を発願された。 天皇は翌年崩御されたが、次の宇多天皇が先帝の意志をつがれ、仁和4年(888)にこの寺が創建され、年号をとって「仁和寺」と命名された。宇多天皇は在位10年、寛平9年(897)醍醐天皇に譲位、2年後に出家得度され、わが国最初の「法皇」となられた。さらに延喜4年(904)には、仁和寺の中に法皇の御所である「御室(おむろ)」を建立され、承平元年(931)崩御されるまで、27年の間ここに住まわれたのである。 仁和寺の住職は「門跡(もんぜき)」と呼ばれている。「門」とは天皇を指し、宇多法皇から、慶応3年(1867)勅命によって退任された小松宮まで30代、およそ千年の間、仁和寺は皇室の寺院として知られるところとなった。 応仁2年(1468)兵火により全てが焼失、その後、双が丘の西麓に仮御所を設け法灯を護持していた。 仁和寺第21世覚深法親王(1588~1648)が三代将軍徳川家光に、仁和寺再興の申し入れを行い、約180年後再建されることとなった。 この時、御所から紫宸殿、清涼殿、常御殿、などが仁和寺へ移され、山門、中門、五重塔、観音堂などは新築された。仁和寺再建は、正保3年(1646)に完了した。 ところが、明治20年(1887)5月、火災により、仁和寺御殿を構成する大部分を焼失した。 明治23年(1890)に、現在の白書院などが建てられ、明治42年(1909)から本格的な再建が開始され、京都府技師亀岡末吉氏の全く新しい構想によって大正3年(1914)に完成をみた。 今日、金堂をはじめとする多くの建物は、国宝や重要文化財に指定されている。また、仁和寺の伽藍と御殿は、昭和12年(1937)史蹟名勝記念物保存法により、「史蹟仁和寺御所址」に、境内の桜は「名勝御室桜」にそれぞれ指定されている。さらに、平成6年に国連の「世界文化遺産」に登録された。 なお、仁和寺は、真言宗御室派の総本山として、また、御室流華道家元としても知られている。