延暦寺 東塔

比叡山延暦寺(三塔十六谷)の中心で、総本堂の根本中堂をはじめ、大講堂、法華総持院東塔など重要な堂塔が集まっている。 天台宗の本山 比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。 山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする総本堂・根本中堂を創建して比叡山を開きました。 最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。 最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。 特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。 比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。 その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。

平安神宮

明治28年(1895)桓武天皇の平安奠都(てんと)1100年祭を記念し、桓武天皇を祭神として創建された神宮である。後に、平安京最後の天皇である孝明天皇も合祀された。 社殿は、平安京の政庁の中心であった朝堂院(ちょうどういん)の形式を、約2分の1に縮小して復元したものである。 二層の神門は応天門(おうてんもん)、中央正面一層の入母屋造(いりもやづくり)の拝殿は大極殿(だいごくでん)、拝殿左右の楼閣は、東は蒼龍楼(そうりゅうろう)、西は白虎楼(びゃっころう)と呼ばれている。 いずれも鮮やかな朱で色どられ、ありし日の平安京の姿を偲ばせるものである。また、拝殿の奥には、御神殿がある。 神殿背後の約三万平方メートルからなる神苑は、四つの池を中心に、各時代の庭園形式を幅広く取り入れた池泉廻遊式の庭園で、四季折々に美しい花が咲き乱れる。 例祭は、4月15日。また、10月22日の時代祭には、御所から当宮まで、各時代の風俗行列の巡行がある。 ◆由緒 桓武天皇延暦12年平城の地より山背國に遷都 翌13年10月22日を山城國と改め新都を平安京と称せらる同15年朔始めて大極殿に出御せられてより一千有余年の久しきにわたり我國の首都として平安文化を創造し政治、経済文化の中心地として明治に至る。明治28年は延暦15年より一千百年に当たるをもって、京都市民は此の平安京祖神の聖徳を慕い神霊を奉齋する。 神社の創立を念願し朝堂院を模して大極殿その他を建造同年3月15日平安神宮の御鎮座を見たのである。孝明天皇は弘化3年皇位を継承せられ慶應2年に至る御在位21年の間国情騒然として内治外交又洵に多難なる時局に当たり深慮明敏よく宇内の進運を洞察せられ明治維新の基を開かせられたのである。 孝明天皇奉祀の議夙にあり昭和13年に至り 社殿の増改築境内整備の事業休息に進捗し同15年10月19日神霊御鎮座の儀厳修せられる茲に於いて平安神宮は平安京創始の桓武天皇と最後の孝明天皇の二柱を奉齋し京都の祖神として市民はもとより廣く国民に崇敬せられている。 例祭4月15日 最も重要な祭典にして勅使の参向あり 時代祭 10月22日 平安講社の奉賛により我國著名祭礼の一つとして廣く内外に知らる。 ◆白虎楼 この楼は、東方の蒼龍楼と共に平安京朝堂院の様式を模したものである。屋根は、四方流れ・二重五棟の入母屋造、碧瓦本葺が施されている。 蒼龍・白虎の名称は「この京都が四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地」とされたことに因むものである。 ◆蒼龍楼 この楼は、西方の白虎楼と共に平安京朝堂院の様式を模したものである。屋根は、四方流れ・二重五棟の入母屋造、碧瓦本葺が施されている。 蒼龍・白虎の名称は「この京都が四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地」とされたことに因むものである。 ◆大極殿  古代の役所の建造物のなかで最も重要な建物で、天皇が政務を執られ朝賀・即位などの重要な儀式が行われた。明治28年、平安遷都1100年記念事業として、平安時代の様式を模して建造された。 規模は往時の約二分の一で、屋根は一重、入母屋造で、碧瓦を用いた本葺である。 平安神宮の大極殿は、平安時代の栄華を偲ぶことのできる唯一の文化遺産である。

南禅寺

臨済宗南禅寺派の大本山で、正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜わり、無関普門(むかんふもん)(大明国師)規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)によって創建された。 以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行なわれると「五山之上(ござんのじょう)」という最高位に列せられ天下の尊崇を得て今日に及んでいる。 勅使門、三門は重要文化財に、大方丈(清凉殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。 ◆由緒 臨済宗南禅寺派の大本山で、正しくは太平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺という。 亀山天皇が大宮院(おおみやいん)(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を、正応(しょうおう)四年(1291)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師(だいみんこくし))を開山として寺に改めたものである。建武(けんむ)元年(1334)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一位となり、更に足利義満によって五山の上(じょう)という最高位に位置付けられ、隆盛を極めた。 方丈(国宝)は大方丈(清涼殿)と小方丈から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。小方丈には狩野探幽(かのうたんゆう)の筆といわれる「群虎図」(重要文化財)があり、「虎の間」と呼ばれている。また、大方丈の前庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作とされる代表的な枯山水庭園で、「虎の子渡し」として有名である。 禅宗様の巨大な三門(重要文化財)は藤堂高虎(とうどうたかとら)が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。境内の南東には、琵琶湖疏水の流れる煉瓦造(れんがづくり)の水道橋「水路閣」が美しく佇(たたず)んでいる。 ◆三門 南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼と云う。日本三大門の一つで有名である。開創当時のものは永仁三年西園寺実兼の寄進によって建立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失した。 現在の門は藤堂高虎が寛永五年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。 入母屋造り、本瓦葺、五間三戸の純然たる禅宗式三門の形式を備え、その高さ約二十ニメートルで左右の山廊より昇降する楼上には、勾欄を附した廻り縁をめぐらし、内部には正面に仏師左京等の手になる宝冠釈迦坐像を本尊として、その脇士に月蓋長者、善財童子を安置し、その左右に十六羅漢を配置し、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されている。 天井の鳳鳳、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆である。 又、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名である。 門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので、高さ六メートル余りあって、大きさでは東洋第一である。

下鴨神社(賀茂御祖神社)

太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神社の一つである。 祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀る。玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗り(にぬり)の矢によって身ごもり、別雷神を生んだという。 賀茂御祖神と呼ぶのはこのためである。 平安遷都(794)後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめた。 境内糺の森は、約12万平方メートル(約3万6千坪)で古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。 社殿は、文久3年(1863)再建の国宝の本殿二棟と重要文化財の殿舎五十三棟などがあり、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。 毎年5月15日、都大路に王朝絵巻を繰広げる葵祭は有名である。 行列が当神社に到着すると「社頭の儀」が行なわれる。また、流鏑馬、御蔭祭など数々の伝統神事が行なわれている。 ◆由緒 平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の祭神である賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母の玉依媛命(たまよりひめのみこと)と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社といい、上賀茂神社とともに賀茂社(かもしゃ)と称される。 平安遷都(794)後は王城の守護神として、朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、弘仁(こうにん)元年(810)以降、約400年にわたり、斎院(さいいん)(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。 江戸末期の文久(ぶんきゅう)3年(1863)に造替された東本殿と西本殿が国宝に指定されているほか、多くの社殿が重要文化財に指定されている。 また、約12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)に及ぶ境内の自然林は「糺(ただす)の森」として市民に親しまれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されている。 毎年5月15日には、京都三大祭の一つである葵祭(あおいまつり)が行われ、御所から当神社を経て上賀茂神社まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰り広げる。また、5月3日の流鏑馬(やぶさめ)神事や7月の土用の丑の日に行われる御手洗祭(みたらしまつり)などもよく知られている。 ◆鴨の七不思議 ① 連理の賢木  3本の内、2本が中ほどでつながっている珍木。えんむすぴのシンボル。 ② 何でも柊   比良木神社のまわりの木は全て葉がギザギザになり柊化する。 ③ みたらし川の水あわ  夏の土用になると清水に足をひたし無病息災を祈る。池から湧く水あわを形どったのが、みたらし団子。 ④ 泉川の石(烏縄手)   紅葉橋のたもとに昔、雨乞いを祈る「こがらし社」があり、願いがかなうと泉川の小石が飛び跳ねた。 ⑤ 赤椿     下鴨の神主は位が高く、他から来るお使いは位が低いことが多かったので、装束に気を使って赤い椿を植え、目立たぬようにした。 ⑥ 船ヶ島・奈良社   日照りや戦乱の時、流れをかき回すと小石が跳ね、願いが成就する。 ⑦ 切芝   糺の森のへそ(真中)、古代からの祭場である。 ◆賀茂御祖神社境内 賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭の事、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。 境内の糺の森は鴨川と高野川の三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。 社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替えで、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。 平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。 弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の西北に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。 また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。 さらに、毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭といえばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇5年(545)にさかのぼる。また、御蔭祭、騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。 このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。

永観堂(禅林寺)

聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山(せいざん)派の総本山で、通称永観堂と呼ばれている。 斉衡2年(855)空海の弟子真紹(しんしょう)が藤原関雄(せきお)の山荘を寺院としたのが起こりで、貞観5年(863)には天皇から定額(じょうがく)を得た。 その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077~1081)に永観(ようかん)が住持となり、念仏道場を開き寺を中興した。 永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。 以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖證空(しょうくう)の弟子浄音(じょうおん)が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。 その後応仁の乱により堂舎が焼失したものの明応6年(1497)後土御門天皇の命により再興し、以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。 寺宝として山越阿弥陀(やまごしあみだ)図(国宝)をはじめ鎌倉時代以来の仏画多数を蔵し、特に本尊の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我が国唯一の逸品で「みかえりの弥陀」と呼ばれて親しまれている。 ◆由緒 永観律師をさかのぼること、200年余り。禅林寺は真言密教の寺として始まりました。863年、弘法大師の高弟、真紹僧都が、清和天皇から寺院建立の許可をもらい、禅林寺という名をたまわったのです。   禅林寺が大きく発展したのは、永観律師の時代です。律師は、境内に施療院を建てるなど、恵まれない人々のために奔走。永観律師を慕う人々によって、禅林寺はいつしか、永観堂と呼ばれるようになりました。   鎌倉時代に住職となった静遍僧都は、高名な真言宗の僧侶でした。お念仏をとなえるだけで救われるという教えに反発をおぼえ、自分の方が正しいと証明しようと、法然上人の著書を開きました。ところが、いくら読んでも「間違っているのは自分では」と思わせられることばかりでした。ついに、静遍はお念仏の教えに深く帰依します。そして法然上人のまな弟子、証空上人を次の住職として招きました。  証空上人は、すべてを阿弥陀仏にまかせきってとなえるお念仏の大切さを説き、「白木の念仏」と名づけて、人々に勧めました。それは、阿弥陀さまが私たちのような者でも一人残らず救ってくださることへの悦びの念仏といっていいでしょう。のちに、禅林寺は、法然上人を宗祖に、証空上人を派祖にいただく、浄土宗西山禅林寺派の総本山となりました。 ◆みかえり阿弥陀と永観律師 永保2年(1082)2月15日早朝。阿弥陀堂に人影がうごく。夜を徹して念佛行に励んでいる僧侶がいるらしい。 東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張が解けた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気が付いて、足が止まった。 「永観、遅し」 ふりむきざま、その方は、まっすぐ永観の眼を見つめられた。 永観堂禅林寺のご本尊は、首を左にかしげ、ふりむいておられます。ほんの少し開かれたお口。お顔全体にただよう穏やかな微笑み。それは遠い昔、永観律師を励まされた時のまま。 阿弥陀さまの慈悲のかたちがこれほど具体的にあらわされている佛さまは例がなく、「みかえり阿弥陀」と呼ばれ、広く知られています。 ◆見どころ 1.東山を背景に、阿弥陀堂をはじめとする古建築が、緑と水に恵まれた庭に調和しています。古来、都会びとに愛された優美な景観の中で静かなひとときを過ごしていただけます。 2.「もみじの永観堂」は、全国にその名を知られています。境内を染め上げる紅葉はもちろん、お堂や回廊のすぐ目の前にせまってくる鮮やかな岩垣紅葉はここでしか見られないものです。 3.みかえり阿弥陀のほか、びんずる尊者像など、功徳ある佛さまを拝むことができます。 4.斬新なデザインと彩色で知られる長谷川等伯とその一門による「竹虎図」「楓雉子図」など、桃山時代の金碧障壁画の傑作が観られます。また、国宝「山越阿弥陀図」や重要文化財「当麻曼荼羅図」など、多くの宝物を所蔵しています。 5.「火除けの阿弥陀」や「三鈷の松」「悲田梅」など、永観堂七不思議が楽しめます。

三十三間堂(蓮華王院)

現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。 一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。 その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。 長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に1001体もの観音像(重文)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という30体の仏像(国宝)が祀られている。 境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。 ◆由緒 現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。  長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に1001体もの観音像(重文)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という30体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。 ◆三十三間堂(国宝)無限の慈悲・千体の観音立像 中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)と、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手(38本と2組)に表現される。中尊(国宝)は、大仏師湛慶(運慶の長男)82歳の時の造像で鎌倉期(建長6年)の名作と評価される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、後の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年をかけて復興された。 ◆雷神と風神像(国宝) 堂内両端のひときわ高い雲座にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する恐れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰した。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品(国宝)である。 ◆観音二十八部衆像(国宝) 観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像(国宝)は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に彫んで接着し、漆を塗って彩色仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼」という技法が用いられている。 ◆楊枝のお加持と通し矢 「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行なわれる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内にのこる多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、今や正月の風物詩となっている。 ◆日本唯一の千体観音堂 正式には蓮華王院(国宝)といい、長寛2年(1164)鳥辺山麓(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

高台寺

鷲峰山(じゅぶざん)と号する臨済宗建仁寺(けんにんじ)派の寺で、正しくは高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)といい、「蒔絵(まきえ)の寺」として広く知られている。 豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ、ねね、高台院(こうだいいん))が、秀吉の菩提(ぼだい)を弔うため、徳川家康の援助を受けて慶長十一年(1606)に創建した。 創建当時、寺観は壮麗を極めたが、度重なる火災に遭い、現在は、開山堂、霊屋(おたまや)、表門、観月台、茶室の傘(からかさ)亭と時雨(しぐれ)亭が当時のまま残っており、いずれも重要文化財に指定されている。 北政所の墓所である霊屋(おたまや)には、秀吉夫妻の木像が安置され、須弥壇(しゅみだん)及び厨子(ずし)に施された高台寺蒔絵として名高い華麗な蒔絵装飾は、室町時代の漆工芸美術の粋が尽くされている。 開山堂の臥龍池(がりゅうち)と西の堰月池(えんげつち)を中心とする池泉(ちせん)回遊式の庭園は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝えられ、国の史跡・名勝に指定されている。 寺宝として、高台院像(重要文化財)、豊臣秀吉像をはじめ、蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品など、数多くの文化財を蔵し、その一部は、ねねの道をはさんだ「高台寺掌(しょう)美術館」で公開されている。  ◆由緒 東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。 造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたという。 しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で現在国の重要文化財に指定されている。 尚豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に叙せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日76才で亡くなられた。 ◆霊屋(おたまや) 秀吉と北政所をお祀りしているところであり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置している。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。 ◆開山堂(重文) 高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1572~1650)を祀る塔所である。 左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されている。 礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船が用いられている。 ◆臥龍廊 (がりゅうろう) 開山堂と霊屋を結ぶ階段で龍の背に似ている所からこのように名付けられた。 ◆観月台 檜皮葺きの4本柱の建物であり、三方の唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物である。 ◆庭園 庭園は、開山堂の東の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、 ◆傘亭(かさてい)重文・時雨亭(しぐれてい)(重文) 利休の意匠による茶席であり伏見から移建したものである。傘亭は竹が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭とは土間廊下でつながっている。

知恩院

知恩院は、宗祖法然上人が1175(承安五)年、吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山。第二世源智上人により基礎が築かれ、徳川家康、秀忠、家光らの外護により現在の壮大な伽藍が形成された。 境内には、国宝の御影堂や三門、重要文化財の勢至堂、集会堂(法然上人御堂)、大方丈、小方丈、経蔵、唐門、大鐘楼など文化財指定建造物が建ち並ぶ。 三門は1621(元和七)年に徳川秀忠によって建立された我が国最大級の木造二重門。 法然上人の像(御影)を安置する御影堂は、1639(寛永十六)年に再建された中心的堂宇で、2012年から8年間にわたる半解体修理が行われている。 紙本著色法然上人絵伝(四十八巻)、絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図、上宮聖徳法王帝説(いずれも国宝)など多数の文化財を蔵する。 ◆由緒 鎌倉時代に法然上人が居住し、お念仏の教えを説かれた場所です。江戸時代、1639年(寛永16年)に家光公が御影堂(本堂)を、1621年(元和7年)に秀忠公が三門を建立し、現在の寺域が形づくられました。全国に7000余の寺院、600万余の檀信徒を擁する浄土宗の総本山です。 ◆念仏の元祖  法然上人 法然上人は、1133年(長承2年)に、今の岡山県久米郡久米南町に生まれました。恨みのない、報復のない世の中を創ってほしいという父の遺言を果たすために、15歳の時に比叡山に登り、仏道修行にはげみました。「南無阿弥陀仏」を唱えることによってすべてのひとが仏さまに救われるという浄土宗の教えを43歳のときに開かれ、1212年(建暦2年)に80歳でお亡くなりになりました。 ◆三門(国宝) 高さ約24m、桁の長さ約27m、木造の門としては世界最大のスケールを誇る門です。空・無相・無作という3つの教えを表しています。 ◆三門釈迦如来像 三門の中央には釈迦如来像を安置。その天井一面には龍、天人、楽器など雄大で豪華な絵画が描かれ、建立当時のあざやかな彩りを今も伝えています。 ◆唐門(重要文化財) 大方丈入口に構える、左右入母屋檜皮葺の落ち着いた門です。その他、お城のような石組と白壁に囲まれた北門や四脚門など、個性に冨んだ数多くの門を仰見ることができます。 ◆御影堂(国宝) 法然さまの御影をまつる知恩院の本堂。寛永16年(1639)に徳川家光公によって建てられました。中は4干人が入れるほど広々としています。大扉の釘かくしの意匠なども、趣向がこらされています。 ◆阿弥陀堂 どっしりと落ち着いた堂内に大きな阿弥陀さまを安置。安らかな雰囲気が漂い、訪れる人々の心をなごませてくれます。 ◆経蔵 (重要文化財) 中国の唐の文化を日本の建築洋式にとりいれた重層宝形造の建物で、独特の造形美をみせています。中には徳川秀忠公が納めた『宋版大蔵経』六干巻を安置する輪蔵が備えられています。 ◆勢至堂(重要文化財) 法然さまがお亡くなりになられた地で、室町時代に再建された知恩院最古の建物です。現在の御影堂が建てられるまでは本堂でした。法然さまの幼名・勢至丸ゆかりの勢至菩薩がまつられており、念仏発祥の地にふさわしく、穏やかなたたずまいをみせています。 ◆知恩院に伝わる七不思議 1.三方正面真向の猫 大方丈廊下の杉戸に描かれている狩野信政(狩野探幽の養子)筆の猫の親子絵をいう。どちらからみても、見る人を正面から睨んでいるように見える。子猫を庇(かば)っているのである。 2.大杓子 大方丈入口廊下の梁に置かれた大きな杓子をいう。長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。真田幸村の家臣三好清海入道が大阪夏の陣の時に、この杓子を持って暴れまわったとか、数千の兵に飯を振舞ったと伝える。 3.鴬張りの廊下 御影堂裏から集会堂、大方丈、小方丈に至る長さ550メートルもの廊下は、歩くと鶯の鳴き声に似た音が出る。静かに歩こうとすればするほど音がでるので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っている。 4.白木の棺 元和元年(1621)徳川秀忠が建てた三門は、瓦葺、五間三戸の二重門で木造の門としては世界最大の規模。知恩院のシンボル的存在である(国宝)。この楼上に納められている白木の棺の中には、この門を造った棟梁五味金右衛門夫婦の木造坐像が安置されている。棟梁は命がけで三門を造ったが、予算超過の責任を取って夫婦ともども自刃したという。 5.忘れ傘 御影堂正面の軒裏、地上十数メートルのところに、骨ばかりとなった傘が遺されている。伝説の名工左甚五郎が魔除けのために置いたものという。 6.瓜生石 黒門前の道路中央にあり、石柵で囲った大きな石をいう。知恩院ができる前からある石で、八坂神社の牛頭(ごず)天王(てんのう)が降臨して一夜で瓜が生えて実ったとか、二条城へ続く抜け道の出入り口であるとも伝える。また、この石は地軸から生えているとも伝え、節分に自分の年齢よりも一つ多く小石を供えるといった風習があったようだ。江戸期には、この石は瓜生(くはしよう)石(せき)と呼ばれた著名な石。 7.抜け雀 大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたもの。万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりに上手に描かれていたので、雀が生命を得て飛び去ったという。