東大寺南大門

◆東大寺南大門(国宝)五間三戸二重門入母屋造、木造、本瓦葺、鎌倉時代 東大寺の正門で、東大寺伽藍の大半が治承4年(1180)の平重衝の兵火に罹って、焼失した。後に行われた復興造営の一つとして建てられた。 大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執った俊乗房重源上人が、宋朝建築の特色を採り入れて編み出した大仏様の建物で正治元年(1199)6月に上棟されており、その後数年を経ずして落成したと考えられる。 門内に安置されている木像金剛力士(仁王)像は運慶、快慶、定覚、湛慶等20名の慶派の仏師たちが建仁3年(1203)に僅か69日間で造り上げたものである。北向に安置されている一対の獅子像は鎌倉復興造営に参画した宋人の石工達が建久七年(1196)に作ったものである。

中宮寺

当寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方500メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和38年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当等は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼茶羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半蜘像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。 ◆中宮寺本堂 高松宮妃殿下の御発願により吉田五十八先生が設計され、昭和43年5月落慶の御堂であります。当寺は伏見宮様より女王様御二方と後西天皇内親王様御一方を始め、有栖川宮より皇女御三方が門跡として法燈をお守り戴いております。又高松宮は有栖川宮祭祀をお継承になり、殊に高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮の最後の皇女であらせられます。このような高松宮と当寺との浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったらと御心痛遊ばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。以前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い南面にし、而も本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂になったのであります。桝組、募股等の組物を一切使わない簡素なつくりの中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、又池の廻りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、斑鳩の里にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております。 ◆本尊菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)(国宝) 東洋美術における「考える像」として有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上欠かすことの出来ない作品であります。国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを数少ない「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価し、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に千三百余年の法燈を継ぐ当寺のこの像は、御本尊として永遠に吾等を見守って下さるでしょう。 ◆天寿国曼荼羅繍帳(国宝)※展示繍帳は複製です 聖徳太子は推古天皇即位30年(622)御年48で箆去遊ばしました。御妃橘大郎女はいたくお嘆きになり、太子様を御慕いのあまり、宮中の釆女たちに命じ、太子様が往生なさっている天寿国という理想浄土のありさまを刺繍せしめられたのが、この天寿国曼荼羅であります。もとは繍帷二帳より成り、そこに四百字の銘文が刺繍されていて、その全文は『上宮聖徳法王帝説』という書の銘文に残っております。それによりますと、画者は東漢末賢・高麗加世溢・漢奴加巳利、監督は椋部秦久麻でした。その後、年の経つにつれて破損し、法隆寺の宝蔵に秘せられますが、鎌倉時代の当寺、中興信如比丘尼が発見し、修復されて、別に一帳の模本の繍帳をも製作されました。現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが貼り合わされて、一帳にまとめられています。この中の赤衣の像が、当時の服制に照らして太子様ではないかといわれています。図中には亀甲型が四個残り、一個に四字ずつ「部間人公」「千時多至」「皇前日啓」「仏是真玩」の文字をあらわし、『上宮聖徳法王帝説」に伝える銘文に合致しております。

信貴山 朝護孫子寺

 今から、1400年余前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は 奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻まれ伽藍を創建、信ずべき貴ぶべき山「信貴山」と名付けられました。以来、信貴山の毘沙門天は寅に縁のある神として信仰されています。  醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちに癒えました。これにより天皇から朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。 大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった根本霊場です。今から千四百年前聖徳太子がこの地において仏敵物部守屋討伐を祈願されたおり虎をお供にされた毘沙門天王が出現され戦勝の秘法を授けられました。奇しくもその日が寅の年・寅の日・寅の刻でありました。そこで太子はこの山を「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と名づけられ自ら毘沙門天王の尊像を彫み守護神としてお祀りになりました。      毘沙門天王のご尊体によろいかぶとを召されておられるのは、世の中のあらゆる邪魔者を退散してやるから心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神と慈悲の心を持って何事も行なえということを教えておられるのです。 又、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です。 爾来 信貴山毘沙門天は七福神のなかでも商売繁昌、金運如意、開運招福、心願成就の霊験あらたかな福の神として広く信仰され、又ご出現の日時に因み聖徳太子にあやかって寅が三つそろうと三寅の福といい毘沙門さんのご利益が得られ縁起がよいとされています。 ◆由緒 今から1400余年前、日本国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐せんと、聖徳太子、此の山に来り戦勝の祈願をされるや、天空遥かに昆沙門天王が出現され、必勝の秘法を授けられた。 その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を刻まれ、伽藍を創建して、信ずべき山貴ぶべき山「信貴山」と名づけられ、以来信貴山の昆沙門天王は寅に縁りのある神として信仰されている。 御本尊毘沙門天王を安置し奉る本堂は大和平野を一望に見渡し、大和川の流れを眼下にする風光明眉な急崖に堂々と張り出した豪壮な堂宇である。 本堂正面扁額両側の首足(むかで)は昆沙門天王のお使い ◆福神 毘沙門天王 毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁昌、金運如意、開運招福、心願成就の徳を厚く授けて下さる福の神です。 信貴山毘沙門天王の、ご尊体によろい、かぶとを召されておられるのは、世の中のあらゆる、じゃま者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出合っても、がまん強い精神で何事も行えということを教えておられるのです。 又、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁昌させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です。 ◆信貴山頂 一願成就の空鉢護法(くうはつごほう) 当山中興の祖命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、鉄鉢を飛ばして山崎長者の倉を飛翔させ、長者を懺悔させて福徳を授けた出来事に由来し、念願必授を得んと願う人々のために山頂に竜王の祠を建てて、その守り本尊として「空鉢護法の神」を祀って日夜勤行されました。 爾来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されてきております。 俗に「みーさん」と呼ばれ蛇(巳)神と考えがちでありますが拝殿の額には「竜王」のふりがなを「みーさん」としており拝殿前には、とぐろを巻いた蛇(巳)の石造が並んでおります。 ※竜王=竜神の姿を蛇(巳)に対応させている。 ご縁日 毎月3日・巳の日 ◆信貴山と虎 今から1400余年前、日本の国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐するため、聖徳太子が此の山に来たり、戦勝の祈願をされると頭上に毘沙門天王が出現され必勝の秘法を授けられました。奇しくもその日は寅年、寅の日、寅の刻でありました。 太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を彫まれ、伽藍を創建して、信ずべき、貴ぶべき山「信貴山」と名づけられました。 以来、信貴山の毘沙門天王は虎に縁りのある福の神として、寅年、寅の日を縁日と定め大法要が行なわれます。

天河大弁財天社

天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ、天河神社)は、奈良県吉野郡天川村坪内にある神社である。旧社格は郷社。現在の運営は単立の宗教法人である天河神社。 宗像三女神の一人、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とする。芸能の神として知られ、現在も芸能関係の参拝が多い。元の祭神名は弁財天(サラスヴァティー)で、神仏分離により「市杵島姫命」と称するようになったものである。今日でも社名に「弁財天」とついている通り、「弁財天」としても信仰されている。「厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつ」と称している。 天河神社社家が代官所に1712年出した「願書」に「生身天女の御鎮座天照姫とも奉崇して、今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝え」るとあることからも判明するように、創建に関わった天武天皇と役行者は、伊勢神宮内宮に祀られる女神(荒祭宮祭神 瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。天河における天武天皇の眼前の上空での吉祥天の舞が五節の舞として現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。 他に、熊野坐大神、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊(後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)、神代天之御中主神より百柱の神が配祀されている。 本殿に祀られている弁財天像は通常非公開で、毎年7月16日から17日にかけて執り行われる例大祭においてのみ開帳され、各種祝詞・般若心経や神楽とともに、能楽やアーティストの演奏などが奉納される。本殿右扉の中に安置されている日輪弁才天像は、60年に1度にのみ開帳とされている。なお、2008年(平成20年)には、時勢の悪化を憂慮し、また本殿改築20年を記念して、60年を経ずして日輪弁才天の開帳が行われた(拝観料:3000円)。