桜井寺(櫻井寺)

桜井寺(さくらいじ)は、奈良県五條市にある浄土宗の寺院。山号は潤生山。本尊は阿弥陀如来。「櫻井寺」とも表記する。 寺伝によると天暦年間(947年 - 957年)、桜井康成の創建と伝える。現在の本堂は1967年(昭和42年)の再建。 文久3年(1863年)8月に五條代官所を襲撃した天誅組はこの寺に本陣を置き五條仮政府を称した。本堂前に代官鈴木源内ら5人の首を洗ったという石の手水鉢がある。 また境内には人形浄瑠璃、歌舞伎の演目『艶容女舞衣』でも知られる三勝・半七の比翼塚がある。

丹生川上神社下社

丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 社名は川上村の丹生川上神社上社に対するものである。 上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるというが、当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性もある。 江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた当神社に比定する説が有力となった。その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。 明治4年(1871年)に、官幣大社に列したが、同6年に、当時の少宮司江藤正澄が、当神社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して、当時の高龗神社(現上社)を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「口の宮」と称すとともに、高龗神社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に当神社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。 だが、大正4年(1915年) 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、蟻通神社(現丹生川上神社(中社))=丹生川上社説を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、当神社祭神も高龗神から闇龗神に改められた。 第二次大戦後の昭和27年(1952年)に独立し、現在は神社本庁に属して、その別表神社とされている。

辯天宗総本山 如意寺

辯天宗(べんてんしゅう)は、大森智辯によって開かれた、日本の仏教の宗派。高野山真言宗の流れを汲み、仏教系新宗教に分類される宗教法人である。大阪府茨木市に本部を置く。宗紋(シンボルマーク)は桔梗紋。桔梗は奈良県五條市の市花(1982年(昭和57年)に公募により制定)でもある。 系列の智辯学園高等学校、智辯学園和歌山高等学校は、高校野球の強豪、甲子園の常連校として全国的に有名である。

栄山寺(榮山寺)

栄山寺(えいさんじ)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。 現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。 栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。 本堂と石灯籠(重文)および「栄山寺行宮跡」の史跡を示す石柱 現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。 栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。 寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。

金剛寺

金剛寺(こんごうじ)は、奈良県五條市にある高野山真言宗の寺院である。ボタン寺として知られている。関西花の寺二十五霊場23番、西国薬師四十九霊場第9番札所である。 金剛寺は1173年(承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、 光仁天皇の皇后、井上内親王(いがみないしんのう)と その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として さらには仁和寺直末の中本寺として栄えた。 1822年(文政5年)当時の本常和尚が薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとして、ボタン寺として親しまれ、 毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催される。 期間中、境内の吉野川を借景とする 約2,000平方メートルのボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。また、秋には、キクが咲き、小菊まつりが開催される。