脳天大神 龍王院

金峯山寺の蔵王堂から西側へ急な坂を下りた川沿いにある、金峯山寺の塔頭のひとつ。 頭を割られた大蛇(金剛蔵王大権現の変化身)を祀っており、「吉野の脳天さん」と親しまれています。 首から上の病気に霊験あらたかと言われており、入学試験合格、病気全癒、商売繁盛祈願の参拝参詣者が多く訪れます。

如意輪寺

如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。 平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。 正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。 芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。

竹林院

竹林院(ちくりんいん)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある単立の寺院。本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師。大峯山寺の護持院の1つである。宿坊竹林院群芳園で知られる。 寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年~824年)空海が入り常泉寺と称したという。1385年(至徳2年/元中2年)に竹林院と改められた。戦国時代の院主尊祐は弓道に優れ一派をなした。明治初年の神仏分離に伴い1874年(明治7年)廃寺となったが、その後天台宗の寺院として復興、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)現在の修験道系統の単立寺院となった。役行者霊蹟札所。

吉野水分神社

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。 葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。 創建については不詳である。当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。 当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。 平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものである。作事の奉行を務めたのは豊臣家臣で尼崎郡代の建部光重。 神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。

栄山寺(榮山寺)

栄山寺(えいさんじ)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。 現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。 栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。 本堂と石灯籠(重文)および「栄山寺行宮跡」の史跡を示す石柱 現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。 栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。 寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。

金剛寺

金剛寺(こんごうじ)は、奈良県五條市にある高野山真言宗の寺院である。ボタン寺として知られている。関西花の寺二十五霊場23番、西国薬師四十九霊場第9番札所である。 金剛寺は1173年(承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、 光仁天皇の皇后、井上内親王(いがみないしんのう)と その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として さらには仁和寺直末の中本寺として栄えた。 1822年(文政5年)当時の本常和尚が薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとして、ボタン寺として親しまれ、 毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催される。 期間中、境内の吉野川を借景とする 約2,000平方メートルのボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。また、秋には、キクが咲き、小菊まつりが開催される。

桜井寺(櫻井寺)

桜井寺(さくらいじ)は、奈良県五條市にある浄土宗の寺院。山号は潤生山。本尊は阿弥陀如来。「櫻井寺」とも表記する。 寺伝によると天暦年間(947年 - 957年)、桜井康成の創建と伝える。現在の本堂は1967年(昭和42年)の再建。 文久3年(1863年)8月に五條代官所を襲撃した天誅組はこの寺に本陣を置き五條仮政府を称した。本堂前に代官鈴木源内ら5人の首を洗ったという石の手水鉢がある。 また境内には人形浄瑠璃、歌舞伎の演目『艶容女舞衣』でも知られる三勝・半七の比翼塚がある。