霊雲院

霊雲院は室町時代後期、大永6年(1526)薬師寺備後守国長の室・霊雲院清範尼のもとめにより、大休国師がその師・特芳和尚を開山として創立した妙心寺四派本庵の一つである。特芳和尚は雪江和尚の弟子で霊雲派の開祖である。大休国師は識徳一世に高く、後奈良天皇は深く国師に帰依せられてしばしばここに行幸された。 書院(重要文化財)は室町時代末期のもので、西北の間を後奈良天皇御幸の間と伝え、書院造初期の構造を示している。庭園(名勝史跡)は是庵の作と伝え、室町時代末期の枯山水で極めて狭小な地域に絵画的手法をもって樹石を配置している。寺宝に狩野元信筆・紙本水墨淡彩・山水花鳥図49幅(重要文化財)がある。なお、門内左手に哲学者西田幾多郎の墓もある。

直指庵

1646年(正保3)隠元禅師の高弟独照性円禅師が草庵を結んだのが起こり。直指人心の黄檗の正統を守り寺号をつけず直指庵とした。その後、法嗣が衰え独照の墓堂を存するだけとなったが、幕末の頃に尊皇攘夷運動家である近衛家老女津崎村岡の局が再興し、浄土宗寺院となる。萱葺の本堂には拝観者が思いの丈を綴る「想い出草」ノートが置かれ、境内には「想い出草観音像」が安置されている。仲良く寄り添う「愛逢地蔵様」は、縁結びにご利益が。

転法輪寺

獅子吼(ししく)山と号し、浄土宗地恩院派に属する。宝暦8年(1758)、僧関通(かんつう)が北野下ノ森に創建した。この地には、昭和4年に移転した。 関通は尾張国(愛知県の生れ)江戸増上寺で祐夫について修業し、享保10年(1725)より諸国に浄土宗をひろめ、16ヶ森を創建し、得度させた僧尼は1500人、戒をさずけた者3000人に達したという。精力的な活躍をした人である。 本尊は阿弥陀如来座像で、高さ2丈4尺の巨大なもの、新中和門院で桜町天皇のために造られたものと伝えられている。 今一体本堂厨子内に安置する阿弥陀如来立像は、高さ2尺5寸で室町時代の作、裸のままであることが、全国的に珍しい佛像である。

蓮華寺

1057年(天喜5)藤原康基が、木喰単称上人作の石造五智如来像を本尊として開創。 広沢の池畔から鳴滝音戸山へ、さらに1928年(昭和3)現在地へ移転。 離散していた石仏を集めて境内に安置された石仏群は壮観で、五智如来像5体が、観音坐像11体とともに並んでいる。真言宗。

落柿舎

ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。 当時、庭にあった四十本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。 これが落柿舎の名の由来である。 芭蕉も晩年、三度当庵を訪れて、名作「嵯峨日記」を著した。 庭には去来のよんだ   柿(かき)主(ぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山 の句碑がある。 去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。 かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。 その句   鴨なくや弓矢を捨てて十余年 はよく知られている。