同聚院

臨済宗東福寺派に属し、東福寺塔頭(たっちゅう)の一つである。 東福寺の寺地一帯は、平安時代中期・延長2年(924)頃に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した所で、寛弘3年(1006)には藤原道長が40才の賀にあたって五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。法性寺はその後も藤原氏が造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その故地に九條道家が東福寺を建立したのである。 本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のち中尊不動明王坐像が幾多の災害をこえて本寺にまつられている。像は仏師定朝の父・康尚の作品で、像高265センチの巨大なもの。忿怒(ふんぬ)相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の一である(重要文化財)。 世に「じゅうまん不動(じゅうまんふどう)」と称され毎年2月2日「じゅうまん」の字を書いた屋守護が施与される。「じゅうまん」は「土力」(土地の守護)又は「十万」(十万の眷属(けんぞく)を従える)の2字を一字にした文字といわれ、火災除けをはじめ除災の霊験あらたかな不動として信仰が深い。

西行庵

西行法師は、平安末期の人(元永元年(1118)~建久元年(1190))で、「新古今集」の代表的歌人の一人である。俗名を佐藤義清といい、もと鳥羽上皇の北面の武士であったが、保延6年(1140)に出家し諸国を行脚(あんぎゃ)して自然の風光を愛した。 この地は、彼が「蔡華園院」(西行草庵)を営んだところと伝えられている。その後荒廃していたが、明治26年(1893)に、富岡鉄斎が勧進文を書き、庵主小文法師が尽力して浄財を募り、再建されて、現在に至る。 当庵は、母屋、皆如庵(茶室)、西行堂からなる。茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の浄妙庵を移したものである。皆如庵は、桃山時代の名席で、円窓の床と「道安囲い」が有名である。また、正面の西行堂には歌僧西行法師、和歌四天王の一人頓阿上人(とんあしょうにん)、冷泉為村、小文法師の4人の木像が安置されている。 毎年4月中旬の西行忌には、供養の釜が皆如庵でかけられる。 願はくは花の下にて春死なむ  その如月の望月の頃  西行(山家集)

金剛寺

当寺は山号を一切(いっさい)経(きょう)山(ざん)とする浄土宗の寺院である。 奈良時代、天平(てんぴょう)年間に行基(ぎょうき)が東岩倉山(左京区)の一切(いっさい)経(きょう)谷(だに)に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上(かみ)の堂」とも称した。 伝えでは、行基は丈六(じょうろく)の阿弥陀如来像を彫ったとされる。丈六とは仏像の理想の大きさで一丈六尺(約四.八m)の略。座れば一丈程度(約三m)になる。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃したが,伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者たちが見つけだし、それを粟田の地に遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(こも)(わら)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから、今も蹴上には「小物座(こものざ)(蔣座)町」という地名が残る。 以降、地元の住民たちによって御堂は守られ信仰されてきたが、 慶長(けいちょう)七年(一六〇二)に岌(きゅう)然(ねん)上人が、青蓮院門跡の許可を得て、 現在の地に堂を移し寺を再興した。 正徳(しょうとく)三年(一七一三)には 本尊が修復され、享保(きょうほう)十五年(一七三〇)には本堂が建立され、 現在に至る。 また当寺は「洛陽(らくよう)四十八(しじゅうはち)願所巡り」の第二十七番の札所であり、慶長年間の頃から、朱印に「行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ)御作(おんさく) 出陣(しゅつじん)の弥陀(みだ)安置(あんち)」という印を捺している。