岩船寺

市域の東南部、奈良県境の小田原の東側に位置している古刹。寺の縁起によると、天平元年(729)、聖武天皇の勅願によって開基したと伝えられています。平安時代に本尊阿弥陀如来坐像、普賢菩薩騎象像、鎌倉時代に十三重石塔や五輪塔、室町時代に三重塔(いずれも重要文化財)が造られました。山あいにあることから、初夏の新緑、秋の紅葉に三重塔が映えて、境内に奥行きを与えています。また、境内一帯に植えられたあじさいが美しく「あじさい寺」として知られています。 ◆由緒 創立は天平元年(729)、聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に籠居しておられた行基菩薩に命じて建てられたのに始まる。その後、弘法大師と智泉大徳が阿弥陀堂において伝法灌頂を修せられたため、灌頂堂となる。 大同元年(806)智泉大徳、新たに報恩院を建立される。更に嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇孫の誕生を祈願され、皇子が誕生された。後の仁明天皇である。皇后ご叡信が特に深く、皇孫誕生のこともあって弘仁四年(813)に堂塔伽藍が整備され、寺号、岩船寺となる。 最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その偉容を誇っていたが、承久の変(承久三年・1221)によって大半が焼失した。その後、再興された堂塔も再度の兵火によって次第に衰え、江戸時代初期の寛永の頃(1624~1643)には本堂、塔、坊舎、鎮守杜等、十棟程度になる。 当時の住僧文了律師はこの荒廃ぶりを痛くなげき、自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川氏の寄進とによって、本堂や本尊の修復を成し遂げられた。 そして、江戸時代の本堂も老朽化のため五ヵ年計画で本堂再建事業を進め、昭和六十三年(1988)四月二日落慶し、現在に至る。 三重塔は天長二年(825)智泉大徳入滅の後、十年を過ぎて承和年間(834~847)に、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで宝塔を建立されたものであると伝えられる。 十三重石塔は正和三年(1314)に、妙空僧正の造立と伝えられる。 石室不動明王立像は応長二年(1312)2月、塔頭湯屋坊の住僧盛現が眼病に苦しみ、不動明王に七日間の断食修法をされ、成満日には不思議にも眼病平癒された。そして報恩のために白ら不動明王を彫刻安置し、入滅の時「我が後生の凡俗にて眼病に苦しむ者あれば、必ず岩船寺の不動明王を祈念せよ。七日間に祈願成就する」と遺言され、今日に至るまで霊験にあやかろうと多くの参拝がある。