上善寺

天台真盛宗。863年(貞観5)慈恵により創建。多くの塔頭を擁したが度重なる火災に遭い、1483(文明15)盛信が中興の祖として再興している。1566(永禄9)柏原天皇の勅願所となり、1594(文禄3)鞍馬口へ移転するが、荒廃した旧地に元上善寺として再建されたのが当寺である(鞍馬口の上善寺はその後浄土宗に転じ現存)。 本尊、阿弥陀如来。大師堂に祀られる大黒天像は慈恵及び最澄の作と伝えられる。本堂裏の墓地には、「仮名手本忠臣蔵」に登場する早野勘平の妻お軽(おかじ)の墓がある。

報土寺

浄土宗知恩院派に属する寺である。 当寺は、貞観元年(859)、行教(ぎょうきょう)が真言宗の寺として創建したものと伝えられている。 その後、応仁の乱などにより堂宇は荒廃したが、永禄2年(1559)、選誉照阿(せんよしょうあ)により、浄土宗の寺院として、相国寺惣門の東南に再興された。  以後、浄土宗の念仏道場として栄え、寛文3年(1663)頃に、現在地に移転した。 表門と共に重要文化財に指定されている本堂は、桁行七間梁行六間、入母屋造の本瓦葺の建物で、寛永6年(1629)に建立され、寺地移転に際し、移築されたものである。 また、当寺が、所蔵する木造阿弥陀如来立像(重要文化財)は、正嘉2年(1258)7月12日の造像銘があり、もとは、近江(滋賀県)の八幡宮に祀られていたものと伝えられている。

華光寺

1582年(天正11)妙顕寺の12世日堯が隠居所として開創。豊臣秀吉が伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進し、寺の守護神とした。江戸時代以降、この像が開運厄除けの神として信仰を集めた。像は平安後期の作と伝える。日蓮宗。 境内の梵鐘は鎌倉後期の代表作で戦時中の供出をまぬがれ府の文化財指定を受ける鐘の下には、秀吉手植えの松という「時雨松」の古株が置かれている。晴れの日も枝からしずくを落としたとされ五色の花をつけたという「五色椿」とともに、「出水七不思議」の一つに数えられた。 二つの銘木とも枯死してしまったが境内の庭園では子孫の松や七種の椿が名残を惜しむ。幕末期の尊攘画家宇喜田一恵をはじめ山陵研究家の平塚瓢斎、加藤清正公の累代子孫一族の墓碑など30数基がある。 建立:1582(天正11)年12月7日 火付盗賊改めとして、凶悪犯の捕縛につとめた西町奉行長谷川平蔵の父・長谷川宣雄の葬儀記録も保存されている。

浄福寺

恵照山と号し、浄土宗に属する。一つには村雲(むらくも)寺ともいう。はじめ天台宗で延暦年中(782~802)、賢憬大僧都の開創と伝えられ、当時二十五大寺の一つに数えられていた。たびたび火災にあい、建治2年(1276)後宇多天皇の命によって一条村雲に再建、ついで室町時代末の大永5年(1525)後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、のち知恩院に属した。この地に移転したのは元和元年(1615)のことで現堂宇は享保18年(1733)の再建になるものである。 本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、釈迦堂は三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。寺宝には、二十五菩薩来迎図(鎌倉時代重要文化財)二幅、土佐光信筆十王像(室町時代重要文化財)十幅などがある。 また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多い。