穴師坐兵主神社

穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。 元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。 元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。 巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。 上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。 穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。 中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。 摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。

相撲神社

相撲発祥の地。垂仁天皇の御前で相撲の元祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)が當麻蹶速(たいまのけはや)と力比べをしたという言い伝えによる。穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)の境内にあるカタヤケシの社が、日本で最初に相撲がとられた場所とされ、勝負に勝った宿禰が祀られている。

長谷寺 登廊

◆仁王門(重文) 長谷寺の総門で、額は後陽成天皇の御宸筆、楼上に十六羅漢、両脇に仁王像を安置。初めは平安時代、一条天皇の御代。幾度か火災にあい、現在のは明治十八年(1885)の再建。 ◆登廊(重文) 百八間、一二九九段、回廊形式の登廊。初めは後朱雀天皇の長暦三年(1039)春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒御礼に寄進したもの。現在の第一、第二登廊は明治二十二年(1889)の再建。長谷型灯籠が気品をそえています。

長谷山口神社

当神社鎮座地は字手力雄とい い、景勝の地で、隠口(こもりく)の泊瀬山 長谷山の鎮護の神として延喜式 神名帳に見え、六所山口社の一 社にあたる古社であって、ご祭 神は大山祇神、天手力雄神、相 殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊 験あらたかにして、あまねく人々 の安泰繁栄と五穀豊饒の守護神 として崇拝されている。 祭礼は、正月、八月三十一日

聖林寺

聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。 聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。 聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。 江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。