光勝寺極楽院(空也堂)

空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。 空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。 そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。 毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。

宝蔵寺

江戸中期に活躍した絵師、伊藤若冲(じゃくちゅう)ゆかりの寺院で、若冲筆『竹に雄鶏図』、『髑髏図』、若冲の弟・宗巌(白歳)筆『羅漢図』、「若冲派」と称される若演の作品が遺されている。

高瀬川一之船入

川の西方の堀割を一之船入という。 高瀬川は慶長16年(1611)頃角倉了以(すみのくらりょうい)が開いた運河で、ここを運行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所(ふなどまりしょ)を船入といった。 高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大坂などの物資を運び入れた。 船入はこの一之船入をはじめ数カ所に設けられた。 明治以後、高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。 一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。