名称 | 宝筐院 |
住所 | 616-8424 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1 宝筐院 |
拝観時間 | 9:00~16:00 |
拝観料金 | 一般 団体割引 障害者割引 大人 500円 大学生 500円 高校生 500円 中学生 200円 小人 200円 団体/障害者割引なし |
URL | http://www.houkyouin.jp/ |
善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の寺である。
当寺は、平安時代に白河天皇により創建され、当初、善入寺と称した。
南北朝時代に夢窓疎石の高弟、黙庵(もくあん)が入寺し、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を得て、伽藍が復興された。
更に、義詮の没後、その院号宝筐院に因んで現在の寺名に改められた。
以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に寺も衰微していった。
現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には、十一面千手観世音菩薩を安置している。
境内には、貞和四年(正平三年、1348)、四条畷の合戦で戦死した楠木正行(まさつら)(正成の子)の首塚と伝えられる五輪石塔及び義詮の墓と伝えられる三層石塔がある。
◆由緒
平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入寺となづけられた。
南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興して中興開山となり、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗の寺となった。
室町幕府の二代将軍足利義詮は、黙庵に帰依し、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれた。
東から西へ総門・山門・仏殿が一列に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていた。
寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わらない。
貞治六年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となり、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み寺名は宝筐院と改められた。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮した寺は次第に衰微した。
江戸時代には天竜寺末寺の小院で、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には廃寺となったが、五十数年をへて復興された。
◆小楠公首塚由来
正平三年・貞和四年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。
明治24年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑『欽忠碑」を建てた。
◆伽藍復興
楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行われた。新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい小楠公ゆかりの寺であることをしめした。
大正6年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、宝筐院の復興がなった。
現在は臨済宗の単立寺院。
◆楠木正行・足利義詮墓所
石の柵に囲まれて二基の石塔が立つ。五輸塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓とつたえる。当院再興の時に残されていた石塔はこの二基のみであり、その他の墓は不明。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「辞徳」は一片の徳、即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉。
◆庭園
書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花木からなる回遊式の庭園が広がり、晩秋初冬にはみごとな紅葉をみせる。