名称 | 明月院 |
住所 | 神奈川県鎌倉市山ノ内189 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
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明月庵の創建は今から830年前、永暦元年(1160)にはじまる。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤計部大輔俊道の菩提供養として俊道の子、首藤刑部太夫山ノ内経俊によって創建。その後、康元元年(1256)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立(現在、明月院西北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は30才で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長3年(1263)11月22日、37才で卒去。のちに北条時宗(時頼の子)が、最明寺を前身として「福厳山禅興仰聖禅寺」を再興。開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の位地にあった密室守厳禅師。康暦2年(1380)、時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興を命じ、伽藍を完備、寺域を広大にし、支院を配置させた。足利三代将軍義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。明月庵は「明月院」とあらためられ、支院の首位におく。禅興寺は明治初年廃寺となり、「明月院」のみを残し今日に至る。
◆開山堂(宗猷堂 そうゆうどう)
このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂を後に開山堂としたものである。
堂内中央には建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の五代目の法孫で当院開山密室守厳禅師(1390年6月9日示寂)の木像、向かって左に最明寺・禅興寺、当院の歴代住持の位牌が祀られている
◆明月院やぐら(羅漢洞)
「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。
壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。
このやぐらは、もともと、永暦元年(1160年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。
上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である。