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鹿王院

名称 鹿王院
住所 616-8367 京都府京都市右京区嵯峨北堀町24
拝観時間
拝観料金
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覚雄山(かくゆうざん)と号し、臨済宗の寺院である。
康暦二年(1380)、足利義満が春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(普明国師)を請じて、この地に大福田宝幢禅寺(ほうとうぜんじ)を建立し、更に嘉慶元年(1387)、その境内に開山塔を建て、鹿王院と称したのが当院の起こりである。
宝幢禅寺は、京都十刹の第五位に位し、近在の天竜寺、臨川寺と並び違容を誇ったが、応仁の乱後に退転して、当院に合併された。寛文七年(1667)に至り、酒井田忠知の子虎岑(こしん)が当院堂舎を修復し、現在に至っている。
仏殿(開山堂)には、本尊釈迦如来像、普明国師像、足利義満像を祀る。
舎利殿には、源実朝が宋から求めたという仏牙舎利を納めた宝塔を安置し、毎年10月15日に開扉される。
寺宝としては、夢窓国師画像、明兆筆釈迦三尊及び三十祖画像など、多くの貴重な文化財を蔵する。

◆由緒
康暦元年(1379)、22歳の足利義満は、夢の中で居士の姿をした多聞天(毘沙門天)と高僧の姿をした地蔵菩薩が「今将軍は福も官位も意のままに十分満ち足りている。ここで一カ寺を建立すれば寿命を延ばすこと間違いない」と語り合うのを聞いた。そこで義満は最も帰依していた五山派の禅僧で天龍寺開山夢窓疎石の後継者であった春屋妙葩(しゅんおく みょうは)を開山として、自らの延命を祈願して、現在地に禅刹を建立して覚雄山大福田宝幢寺(ほうとうじ)と名ずけた。

覚雄とは碩才の集まる山、宝幢とは発菩提心を意味する。至徳3年(1386)には、南禅寺・天龍寺・相国寺などの五山に次ぐ京都十刹(じっさつ)の第五に列せられて幕府の官寺となった。

この宝幢寺開山となった春屋の塔所(たっしょ)として同時に建立されたのが鹿王院である。鹿王の由来は造作の折りに野鹿の群れが現れたことによる。

鹿王院は宝幢寺の唯一の塔頭として宝幢寺の住持を幕府に推薦したり、鹿王院の下に所属する春屋門派の末寺の住持の任免や全国に散財する荘園の管理を行うなどの実権を持つ門派の拠点寺院の役割を果たした。

宝幢寺鹿王院が最も栄えたのは15世紀末から16世紀前半である。義満を初めとして義持・義教・義政ら歴代将軍のお成りがあった。応永20年(1427)には義満13回忌が天皇の行う法事にならって宝幢寺で行われ、将軍義持と扈従(こじゅう)の公卿らは二十数台の牛車を連ね訪れている。

しかし応仁2年(1486)9月7日の応仁・文明の乱の戦火で天龍寺を始め宝幢寺も含め嵯峨の寺院は全て焼失した。同時に全国に散在した荘園も守護・地頭の横領にあった失われて、以後宝幢寺の再建は実現せず、開山塔である鹿王院だけが一門の努力で再建され十刹としての宝幢寺の格式を継承していった。

文禄5年(慶長元年 1596)伏見大地震で鹿王院は倒壊した。鹿王院の再興が本格化したのは、江戸寛文年間(1660年代)の第12世虎岑玄竹(こしんげんちく)の時である。虎岑は徳川家康最古参の譜代酒井忠次の五男忠知(ただとも・直参旗本1500石)の五男であった。

酒井本家は出羽鶴岡藩14万石で虎岑は本家鶴岡藩の外護・支援を受けて再興した。この結果延宝4年(1676)には昭堂の再建が実現した。

再興後の鹿王院は天龍寺の塔頭としてだけでなく創建以来の春屋門派の末寺も含めて63カ寺で宝幢派を形成してその中心寺院となって明治初期の改制まで勢力を維持した。

鹿王院特別公開案内

◆仏牙舎利
舎利殿内陣中央の須弥壇上の大厨子には銅製鍍金の多宝塔内に釈迦の歯である仏牙舎利を奉安し、四方に仏法護持の四天王を安置する。この仏牙舎利は、鎌倉三代将軍源実朝が宋の都臨安(現杭州)の能仁寺より鎌倉に講じ、当初は大慈寺のち円覚寺に奉安したものを光厳上皇が夢窓国師を通じてその一部を京都に献じさせ、後光厳上皇が応安七年(1374)普明国師に下賜され鹿王院に奉安した。毎年十月十五日を舎利会として開扉供養の日としている。中国より日本の博多に仏牙舎利が着いた日である。

源実朝が仏牙舎利を請来したのは、夢のなかで実朝が中国律宗の開祖南山道宣律師の再来であると告げられことによる。ここから道宣が開山である宋の能仁寺の仏牙舎利の請来を再三行い、ようやく目的を遂げた。この能仁寺の仏牙舎利にはいわれがある。釈迦涅槃後の茶毘のとき帝釈天に与える約束であった仏牙を捷疾羅刹(しょうしつらせつ)という鬼がこの二牙を盗んで空に走った。これを毘沙門天が追って打ち落として取り戻した。この仏牙は隋の時代に北天竺の太子張瓊(ちょうけい)が道宣律飾に付嘱し、道宣は自らが開山の能仁寺に奉安したと伝える。

舎利殿は宝暦十三年(1763)現在の位置に移築再建した。別に駄都毅(だとでん)ともいう。梵語で舎利の意である。天蓋に龍を描くのは法の雨を降らせるといういわれからである。

◆釈迦三尊井三十祖像 吉山明兆(きっさんみんちょう)(重要文化財)
室町時代前期に東福寺の公用画僧として活躍した吉山明兆(1352~1431)の作。他に「五百羅漢図」「聖一国師像」「大涅槃図」「四十祖像」がある。作域は広いが、何よりも本領を発揮したのは人物描写であり、如拙・周文・雪舟といった鑑賞画で活躍した相国寺画僧とは大きく異なる。

◆釈迦三尊像
釈迦三尊像は霊山会上での拈華微笑(ねんげみしょう)の因縁を描いたものである。雲中光円のなかで右手に金波羅華を拈じる釈迦を中に、道服姿の天王、釈迦の拈華に合掌微笑する摩訶迦葉(かしょう)が描かれる。釈迦から迦葉へのまさに付法の瞬間を描いたもので、禅宗法脈の始まりを伝える。

◆三十祖像
「行年七十五明兆」の款記から応永33年(1426)明兆七五歳のものである。列祖像の各祖師の頭上には春屋の嗣子厳中周による各祖師の略伝賛文がある。三十員の祖師は禅宗の初祖達磨から二祖・三祖と中国の祖師たちをへて来日した無学祖元、祖元に嗣法した日本僧高峰顕日から夢窓疎石・春屋妙葩へと連なる五山禅林夢窓派春屋門派の法系図絵である。列祖像は、単独の祖師像とは異なり水墨画を思わせる墨線を主として用いて一人一人の祖師の個性を巧みに描き分けている。

◆茶室【芥室】(かいしつ)
芥は「とるに足らない」の意で謙遜した言葉。芥室の号は普明国師の別号に由来する。俳優大河内伝次郎が普明国師五百五十年忌を前にして昭和十一年に隠寮として寄進したものを茶室として活用している。大河内伝次郎は、鹿王院実堂和尚に参禅、明治初めの天龍寺滴水禅師ゆかりの茶室滴水庵を譲り受げ小倉山山麓に大河内山荘をはじめた。

この当院の茶室芥室と大河内山荘を手が懸げたのぴ昭和の名工と称される数寄屋師笛吹嘉一郎である。嘉一郎は京都の人で表千家で茶道の稽古をするなど数寄屋師としての素養を身につけ、その建築には阪急小林一三の茶席「即庵」・表千家不審庵増築・堺南宗寺「実相庵」などがある。

本茶室六帖には床・違棚・書院を配した書院造、四帖半には床・書院・内仏・袋棚を配した数寄屋造となっていて、用材の吟味をはじめとして笛吹嘉一郎の秀れた数寄屋師としての力量が現れている。六帖茶席の炉は亭主が床を背にする大名手前になっている。

[軸]足利義満自筆書状

書状は康暦元年(1379)、南禅寺山門破却事件以来丹後に九年間隠棲の春屋妙葩が義満の再三の請に応じて上洛を決意したことへの感謝と期待の書状。

其後久不申承候条

御無心元候、御上洛事

悦喜仕候、妙事以面可申

承候、恐惶謹言

四月廿四日 義満(花押)

其の後、久しく申し承らず候条ご無心の元に候 こ上洛の事

悦喜仕り候 妙事は面するを以って申し承るべく候 恐惶謹言

京都府京都市右京区嵯峨北堀町24

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