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丹生川上神社下社

名称 丹生川上神社下社
住所 638-0021 奈良県吉野郡下市町長谷1-1
拝観時間
拝観料金
URL http://www3.pref.nara.jp/kankou/1173.htm

丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
社名は川上村の丹生川上神社上社に対するものである。

上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるというが、当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性もある。

江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた当神社に比定する説が有力となった。その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。

明治4年(1871年)に、官幣大社に列したが、同6年に、当時の少宮司江藤正澄が、当神社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して、当時の高龗神社(現上社)を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「口の宮」と称すとともに、高龗神社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に当神社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。

だが、大正4年(1915年) 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、蟻通神社(現丹生川上神社(中社))=丹生川上社説を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、当神社祭神も高龗神から闇龗神に改められた。
第二次大戦後の昭和27年(1952年)に独立し、現在は神社本庁に属して、その別表神社とされている。

奈良県吉野郡下市町長谷1-1

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