名称 | 六孫王神社 |
住所 | 601-8471 京都府京都市南区八条町509 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
URL | http://www.rokunomiya.ecnet.jp/ |
清和天皇の孫、六孫王源経基を祭る。経基の子満仲が邸宅跡に霊廟を建て六の宮と称したのが起こり。
その後源実朝夫人がここに寺を建て、その鎮守社となった。
本殿の背後に経基の墓石があり、境内から「満仲の誕生水」「児ノ水」など名水が出る。
◆由緒
この神社は清和源氏(せいわげんじ)の祖と仰がれる六孫王源経基(みなもとのつねもと)を祀っている。神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲(みつなか)が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。
その後、いつしか荒廃していたものを、元禄13年(1700)、当社の北隣の遍照心院の南谷上人(当時の能筆、作庭家)が幕府に請うて再建し、この神社を遍照心院(別名大通寺)の鎮守とした。これが現在の社殿である。
本殿に経基、相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇からは神廟といわれる、経基の遺骸を納めた場所、境内北の弁天堂内には六孫王誕生水がある。古くから京都名水の一つとされている。江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったことは、境内石燈篭に松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。
◆六孫王のいわれ
主祭神の経基王は、清和天皇(第五十六代)の第六皇子貞純親王の御子で天皇の孫にあたるゆえ、六孫王といわれる。
◆王の御事蹟
王は生まれつき気質温厚で好文博学にして、よく武道にも励み、承平・天慶年間の乱には鎮守府将軍として任地に赴き乱を平定、その功により天皇より源性を賜り源朝臣を名乗ることとなり、やがて武門の棟梁として名を天下に知られることとなったのである。また、王は和歌にも長じ『拾遺和歌集』にもその歌詞が採用されている。
◆創建は平安時代
経基王は六十四歳(諸異説あり)を以て薨去されたが、遺言に『亡き後も霊魂は龍(神)と化し 此の西八条亭の池(境内中央の神龍池のこと)に住みて子孫の繁栄を祈らん』と申されたとある。王薨去後、御子の満仲公が応和三年(963)九月に王の邸宅であった此の地に葬り、その前に社殿を建立したのが当六孫王神社の始まりである。
◆神社の盛衰
鎌倉三代将軍源実朝が、公暁に暗殺された折り実朝の夫人は亡符の菩提を弔うために出家して、源氏ゆかりの此の地に庵を結び、萬祥山大通寺と号して、六孫王神社を鎮守社として明治維新政府の神仏分離令により、又東海道線敷設により九条大宮南へ移築されるまで盛衰を共にしたのである。
特に北条政子(頼朝夫人)が、又室町時代には代々の足利将軍家が多くの社領を寄進し、源氏の宗社として之を庇護したが、足利義満の時代には社殿佛閣がほとんど炎上し、応仁の乱によって社領を奪われてしまった。しかし往古よりの祭祀佛事は滞りなく、公武の栄幸を祈り祀れるを、江戸時代に入って、元禄13年より徳川家並びに清和源氏嫡流の諸侯と共に再興に取りかかり、宝永4年(1707)に竣成し、盛大に祭儀が執行された。(これ以後の10月の例祭を宝永祭とも称する)又元禄14年には東山天皇より 権現号並びに正一位の神階を賜り、名実ともに京都洛南の名社として栄えたのである。
末社の弁財天像は弘法大師御作と云われ、経基王が御子満仲公誕生の折り産湯に使われた井戸の上に祀られたところから誕生水弁財天と呼ばれ、昔から幼児の守護神(井戸水は特に安産の水・健育の産湯として都七名水の内の一つに数えられていた)として、又無病息災の守り神としてこれまた霊顕あらたかな御祭神であり、毎年6月13日には弁財天御開帳祭が行われます。