名称 | 大原野神社 |
住所 | 610-1153 京都府京都市西京区大原野南春日町1152 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
URL | http://oharano-jinja.jp/ |
祭神として、奈良の春日大社と同じ建甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売大神(ひめのおおかみ)の四大明神を祀っている。
当初は桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏(おとむろ)の意によって藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥3年(850)藤原冬嗣(ふゆつぐ)の奏請により神殿が建てられ、京都の守護神としてこの地に祀られたものである。
平安時代の中期には藤原氏の隆盛とともにその氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅使が派遣されていた。
また、伊勢の斎宮(いつきのみや)や加茂の斎院(いつきのいん)にならって当社にも斎女(いつきめ)がおかれていた。
しかし、応仁の乱後は社運が次第に衰え、祭儀も途絶えがちになり、社殿は荒廃した。
現在の春日造総檜皮葺の本殿は慶安年間(1648~1652)に再建されたものである。
境内には奈良の猿沢の池を模した「鯉沢(こいざわ)の池」や古歌に多く詠まれた「瀬和井(せがい)の清水」と呼ばれる名水がある。
◆由緒
大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから開けたところで一萬年も以前の有柄尖頭器が山の手から発見されている。人皇五十代桓武天皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長岡京(784~794)に遷された時 鷹狩を愛した天皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。
萬葉集の編者大伴家持が
「大原やせがいの水を手にむすび
鳥は鳴くとも遊びてゆかん」
と詠んだのも狩に供奉した時のものであろう。またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが當社の起こりである。御祭神は
第一殿 建御賀豆智命
第二殿 伊波比主命(経津主命)
第三殿 天之子八根命
第四殿 比咩大神
がお祀りされている。文徳天皇は仁壽元年(851)祖父藤原冬嗣が生前果せなかった壮麗な社殿を創建され春秋二季勅使をつかわし勅祭を行なわれた。應仁亂後は社運おとろえ祭儀さえ中絶したが後水尾天皇(1648)が再建された今の本殿四棟春日造はこの時のものである。慶應元年十一月加茂、石清水の勅祭に次いで官祭が復興され近くは大正十一年十一月十四日時の皇后(貞明皇后)が當社に行啓遊ばされた。
御例祭は櫻花満開の四月八日に執行、特殊神事として御弓祭と御田刈祭の二私大祭がある。
◆源氏物詰 ゆかりの地
桓武夫皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后のために、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西郊、小塩山東麓)に勧請したことに始まり、平安時代に入って文徳天皇が外祖父、藤原冬嗣の念願をうけて神殿を建立、地名にちなみ大原野神社とした。
当社は藤原氏の氏社として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部も中宮彰子について参詣しており、また紫式部は、父藤原為時の任国である越前(福井)で、雪の日野山を見ながら小塩山を思い出し「ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがへる」(『紫式部集』)と詠っている。
『源氏物語』「行幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて行幸を見物している。物忌で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応えて「小塩山みゆきつもれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ」と寿いだ。