名称 | 妙本寺 |
住所 | 神奈川県鎌倉市大町1-15-1 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
URL |
身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古のお寺。この地は比企能員(ひき よしかず)の屋敷跡である。建仁3年(1203年)、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が後継者問題を口実に比企の乱で攻め滅ぼした。
その後比企能員の末子の比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)が日蓮上人と比企の乱で滅んだ比企一族の菩提を弔う為に創建された。
二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。
◆地名のいわれ
比企谷は地名、其の起りは頼朝公の乳母比企の尼は、公が伊豆へ流罪の身となってからも、心を公に寄せ、尼の娘夫婦安達藤九郎夫妻は終始公に随身し、尼も亦常に公をお見舞いしていた。鎌倉開府に及び、公は尼の老後を慰めるため家を造って呼び住まわせたのが、現在の祖師堂の地点である。公の妻政子懐妊するや、尼の許に安産したのが、後の頼家将軍である。のみならず、尼の比企家の跡取は夫婦養子で比企能員(よしかず)と云い、公に重用され、現在の妙本寺庫裡の地点に住って居た。これ等のため此の谷を比企谷と云う。
◆比企の乱
比企能員の娘讃岐の局(初め若狭の局と云った)は、将軍頼家の側室となリ、嫡子一幡を産んだ。即ち将軍の外戚と云う関係を生じたのである。将軍と北条時政とは常に不和であった。将軍は北条を亡ぽさんとの計をたて之を能員に計った。其の密談が露見して、北条方に先手を打たれ、能員はじめ比企一門全部討ち亡ぽされた。讃岐の局は火攻めに遭って池に身を投げ、将軍の嫡子一幡は僅に六歳で此の乱に焼死した。建仁3年9月2日の事である。翌日灰の中から一幡の遺骸が発見され高野山に葬り、焼け残りの袖を埋めたのが、今に残る一幡君袖塚(史蹟)である。これを比企の乱と云う。
◆比企家の再興
比企の乱に幸いに生き延びた二人の乳幼児がいた。一人は讃岐の局を母とする頼家将軍の娘子(よしこ)、一人は能員の末子比企能本(よしもと)である。共に当時二歳であった。能本は京都で成長し、武門を捨てて儒者となった。順徳上皇に仕え、佐渡遷幸にお供し、上皇崩御の後儒官として鎌倉幕府に仕えた。それが頼経将軍の時で、比企家は此処に再興され、大学三郎能本と称して、父母の住んだ比企谷に屋敷を持ったのである。
◆信仰を強めた一事
能本が此の地に住んで居た時が、日蓮聖人の鎌倉弘通時代で、聖人は辻にまで立って説法された。能本は深く聖人に帰依していた。ところが、文応元年十月、時の連署(役名)北条政村(時政の孫)の息女が俄に物に憑かれた恰好で座敷中をのたうちまはり、「自分は讃岐の局である。今は蛇身を受けて比企谷の土中に在り頭に火炎が燃えて苦んでいる、北条家に怨みがある」。と云うのである。さては比企の乱の恨みを指すものとして、鎌倉中の僧侶を招いて、一日経頓写会を行なったり、別に八幡宮の別当隆弁に祈祷を依頼したりした。この事は具さに吾妻鏡十七巻(二十八紙以下)同四十九巻(三十三紙三十八紙)北条九代記にも記載されている。能本にしては、讃岐の局は姉であり、世が世であれば姉の産んだ一幡君は頼家の嫡男で、当然将軍職に就くべき人、婦人の斯の恨みは想像出来る。殊に父母兄姉一門罪なくして全部殺されたことを、能本常に歎きその得脱の法筵を日蓮聖人にお願いした。
聖人は、能本のこの心中を深く愍(あわれ)み、「儒者は三世因果を知らず、されば父祖の迷苦を救うによしなし」と、一日経を誦し法華経の功徳を回向せられ、殊に能本の姉讃岐の局の霊を蛇苦止(じゃくし)明神と勧請された。
因果を信じ霊の存在を疑はないことは、信仰の重要な基礎である。恐らくは、能本の信仰はこれによって一段と深まったことであろう。
◆妙本寺の創建
一夜にして亡びた父母兄姉の冥福、それは何よりも、法華経弘通の根本法城を造るに越したことは無い。宗門最初の寺を此の鎌倉に造る善根、これぞ時にとって最も急を要する護法の事業である。「よし邸地を捧げて此の功徳を成就しようぞ」とは能本の心中であったであろう。同時に此の事は街頭に辻説法される聖人のお姿を拝して、常に胸中に往来する弟子檀方の希望でもあった。そこで能本は吾が屋敷を捧げて御納受を願った。聖人は之を深く嘉賞なされて、ひそかに長興山妙本寺と命名された。
(文応元年)妙法の弘まる根本の寺妙本寺、なんとうるわしい名前であろう。長興は長く興るで末法万年広宣流布を意味している。然も能本の孝養の志を賞して、長興の二字を父能員公の法号に、妙本の二字を母上に分ち与えた。即ち最初の檀越である。父母孝養、善根菩提、弘通外護と一ぺんに成就するこれが本当の法華経の功徳利益である。其の後聖人、伊東、佐渡両度の流罪には、能本は幕府の内に在って頗る執権を諌めるところあって、これ等外護の志し薫発して、文永十一年聖人佐渡より鎌倉へ帰られた。
(能本この時七十三歳)
◆妙本寺の実現
「文永十一年三月二十六日鎌倉比企谷に着す、大学三郎履(くつ)を到(さかしま)にして之を迎ふ」と本化高祖伝に記してある。これは聖人が佐渡より比企谷に帰られたことを云うので、四月朔日開堂の式をととのえ、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法を講じ給い塔中別付の本懐を開き末法万年の法雲を長に興し一閻浮提妙法の根本霊場たるべし、と祝祷なされた。依ってこの場所即ち比企谷を「三大秘法最初転法輪」の道場、と称する所以でもあり、妙本寺を公称し得たのは聖人佐渡赦免後である。
◆両山一主
爰を以て聖人身延隠棲に際しては妙本寺を日朗上人に付属し、また池上入滅に際しては、儼として長興長栄両山一主の規を定め日朗上人に付属せられた。蓋し本門寺は能弘の導師入滅の地、妙本寺は所弘の妙法最初流布の処なれば、終始一貫、人法一如、甚深の聖意拝察すべきである。
よって朗師興栄両山を兼職すること三十七年、三世日輪上人、四世日山上人等爾来その古制を遵守して法灯連綿。然るところ第七十四世謙光院日慎上人(酒井日慎)に及んで、国家の宗教団体法制定により昭和十六年この制度が廃止された。因に妙本寺第七十五世は一信院日雅上人(島田勝存)第七十六世は金子日威上人であり、第七十七世は常立院日徳上人(蒲田行静)
◆三長三本
比企谷長興山妙本寺、池上長栄山本門寺、平賀長谷山本土寺と山号寺名ともに長が附き本が附くので、これを三長三本と云い朗門の古刹である。
◆比企谷新釈迦堂(旧法華堂)
頼朝公の血を引く源氏は頼家、実朝の三代で男系を失った。其の政権維持の為であったろう。前記 頼家の女子子(よしこ)に、京都から藤原頼経を迎えて四代目の将軍とした。子(よしこ)は将軍の御台所となったのである。御所名を「竹の御所」と云う。やがて懐妊したが死産で、肥立が悪く最早此の世の人と思はれぬ臨終の折りの遺言に「自分はお釈迦様を信仰したので、亡き後は此のお像をお祀りする堂を造り、その須弥壇の真下に自分を埋めてほしい」と云うのであった。何分源家に残った最後の人であり将軍の正室なので、遺言通り造られたのが比企谷新釈迦堂で、その地点は、祖師堂の北の谷にあった。(現在は墓地になっている)天保年間に、堂宇を縮小して下の祖師堂前左側に移築されたが、大正十二年関東大震災に倒潰した。現在その跡に、前田健二郎氏の設計により近代化した建造物が出来た。(七十六世日威上人、七十七世日徳上人両代)これを霊宝殿と称している。
前記の釈迦像は中国の陳和卿作の立像仏で、現在はこの霊宝殿に安置されている。
◆万葉註釈と仙覚律師
新釈迦堂の創立はそう云う由来なので、幕府は其の建設と共に堂に供僧職(住職)を置き、且つ供田(寺領)を付した。供僧職の初代かと想像される人に、仙覚と云う人があり、此の人は十三歳の時から神仏に願をかけて、どうぞ万葉集の本源を悟らしめたまえ、と祈った程の人で、当時万葉研究の第一人者であった。其の頃万葉の異本は六本あったそうで、その為将軍の命を受けて初めに定本を作り、次いで又註釈を命ぜられたのである。そこで釈迦堂の僧坊でも註釈を書き、又供田である今の埼玉県比企郡大河原村増尾でも書かれた。即ち、校定本の奥書に、寛元四年十二月廿二日、於二相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊一以二治定本一書写畢。とある。又、文永六年孟夏二日、於二武蔵国比企郡北方麻志宇郷政所一註レ之了。権律師仙覚とある。故に今日なお万葉研究者をして追慕の情を深からしめる処である。大正十年の夏、歌人佐々木信綱先生が、仙覚の遺蹟を訪ねて来山されたことがある。
その折り記念に歌一首を残された。
夏の日仙覚律師の住みし比企ケ谷をとひて 信綱
奈良の葉のふりにしあとよいまいづら
せみしぐれこそさかりなりけれ
◆蛇苦止明神
妙本寺北方の山に在る蛇苦止明神社は、前記讃岐の局の霊を祀ったので、比企谷の鎮守として勧請されている。又此の場所が局の住んで居た一幡君の小御所で、比企の乱に一幡君はここに焼死し、局は身を池に投じ、一門は悉く此処に戦死した。そう云う古蹟なのである。これはずっと後応永二十九年十月の事であるが、佐竹と上杉の戦争があって、負けた佐竹上総介入道常元は、山を越えて妙本寺祖師堂の北の谷法華堂の矢倉の中に於て主従十三人自刃した。上杉方は之を追って妙本寺に火を放けた。
トンダ災難を受けたのは妙本寺で、時の貫首日行上人は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼きたくないと、日蓮聖人真筆の本尊を取り出し、駆け戻って蛇苦止堂の井戸の中へ格納した。すると忽ち空中に黒雲が起り、その中に蛇の姿が見え、やがてどうどうと雨が降って火を消したと云う奇瑞が現われ、その難をまぬがれたので「蛇形の井戸」と云っている。又、前記の本尊は、日蓮聖人が武州池上で入滅の際、その枕辺に祀られた本尊で、臨滅度時の本尊と称せられ、弟子の日朗上人が妙本寺唯一の霊宝として残されたもの、此の奇事あって以来「蛇形の本尊」とも呼ばれ、世に有名な話となっている。
◆祖師堂
当山の祖師堂は、日朗尊者建立の後、日調上人再建す。現在の十二間四面の堂は、天保年間日教上人(両山四十七世)の建立によるものである。内部の御宮殿は元は、鼠山感応寺のもので、鼠山感応寺と云うのは、天保七年将軍徳川家斉公の肝入りで、江戸雑司ヶ谷に建立された本宗の巨刹であった。其の頃将軍家と深い関係の寺は、代々芝の増上寺か、上野の寛永寺かに決っていたようである。それが側室の熱心な法華信仰からとはいえ、将軍を動かし、将軍家の寄進で此の寺が建ち、然も翌天保八年には、幕府から三十石の寺領が賜わると云う程であったから、裏面の葛藤は想像に余りある。ところが天保十二年家斉公の薨去とともに、水野越前守忠邦の財政改革の為早速取毀わし、廃寺の運命に遭った。創建の願主が両山四十八世日万上人であった関係上、比企谷妙本寺では其の祖師堂、客殿等を礎石とも引取ったのである。又明治八年身延山久遠寺火災の折リ、日鑑上人(身延山七十五世)の懇請によって其の祖師堂の材料を身延山へ寄進された。当時其の材料を鎌倉由比ヶ浜から海路波木井川へ運搬された古文書が日鑑上人からの御礼の七言絶句と共に妙本寺に今も現存している。
◆寿像の祖師
祖師堂の壮厳華麗な御宮殿に安置の祖像は、日法上人(中老僧)刻むところの一木三躰最初第一の作にして、日蓮聖人御存命中に謹刻された御尊像なるが故に、「寿像の祖師」と尊称されている。(一木にて三躰を作り、身延、池上、比企谷の三山に安置す)尚、御宮殿に向って右側中央に、二世日朗尊者の像を安置す、その左右に比企能員夫妻を祀る。能員の法号は長興、妻の法号は妙本、長興山妙本寺の建立に合わせて、聖人が大学三郎能本の追恩孝養を賞でられ、斯く命名し給う処である。又向って左側中央に三世日輪上人の像を安置す、この左右に能本夫妻を祀る。能本は後出家して本行院日学上人と呼び、妻の法号を理芳尼という。
◆二天門
天保年間(本行院日恭上人代)建立にして、朱塗りの門である。両脇に持国天、毘沙門天が祀られている。
◆鐘楼
祖師堂と本堂との中間、小高い丘にあり昭和九年(日雅上人代一に再建された朱塗りのものである。古来よりあった梵鐘は元禄十七年両山二十二世日玄上人代に鋳造されたものであったが、惜しくも大東亜戦の際供出した。現在の梵鐘は、昭和三十五年第七十六世日如上人(後に日威と改む)代に再鋳された。銘に和歌あり
篤信の誠の籠る鐘の音は
妙の御法をとはに伝へん
◆本堂
旧本堂は大正十二年の関東大震災に倒潰し、昭和六年第七十五世日雅上人代に新築された。当山唯一の霊宝である宗祖臨滅度時本尊の御写しと、祖像を奉安してある。
◆書院、庫裡
大正の大震災に倒潰し、昭和七年日雅上人代に再建された。
◆奥の客間、並に貫首居間
昭和五十六年(日徳上人代)に新築された。
◆蛇苦止堂
旧堂は関東大震災に倒潰し、大正十四年(日肝上人代)に再建された。讃岐の局の霊を祀る。賽者多し。
◆総門
天保年間の建立。これ又、大震災に倒潰し、大正十四年(日肝上人代)に再建された。
◆比企谷幼稚園
九老僧日伝上人庵室の旧蹟にして寺号を大円坊と呼ばれていたが、大正十二年関東大震災に倒潰した。昭和十二年(日雅上人代)八角堂の園舎を建立して妙本寺経営による幼稚園を開設し現に存続している。
因に、大円坊は昭和二十六年妙本寺に合併して廃寺となる。
◆源子(よしこ)墓
祖師堂左池の上にある。二代将軍頼家卿の息女で、四代将軍頼経卿の夫人である。文暦元年九月二十七日、三十二才で逝去。
◆比企一族の墓
大学三郎能本夫妻、其の父比企能員夫妻の四基の墓が一所に祀られ、之を護法廟と称されている。
◆佐竹上総介入道常元以下十三騎墓
祖師堂左池の上(法華堂旧地)矢倉の中にある。応永二十九年十月三日、佐竹入道常元父子が、養子のことで上杉憲定と合戦に及び、敗れた佐竹父子主従十三人が此処に討死した。
◆有名人の墓
近来の有名人として日露戦役に海軍の名将たる上村彦之大将、仏教学者として世界的に名を馳せた潮風姉崎正治博士、文士には丹下左膳の著者林不忘(本名 長谷川海太郎)、漢学者塚本柳斉等の墓がある。皆な日蓬宗信者であった。
◆霊宝
一、立像釈迦牟尼仏
宋の陳和卿作にして源媛子の念持仏と伝う
一、日蓮聖人尊像
弟子の日法の作生前の実写なるによリ容祝推知の一権威あり世に一木三体の祖師又寿像の祖師と尊称さる祖師堂に安置(市の重要文化財)
一、臨滅度時の本尊
日蓮聖人真筆弘奏二年三月の書原型は長さ五尺二寸幅三尺三寸七分の大幅なリ聖人池上に於て臨終の砌 枕辺に奉掲せし本尊にして後世故ありて蛇形の本尊とも称す
一、日蓮聖人真筆本尊十幅
聖人の教義に於て重大な指示を与えるもの教義研究者にとって重要な資料となる
一、日朗上人真筆本尊六幅
朗師の風格を伺小得るものとして宗門の重宝なリ
一、日蓮聖人消息断片数通
一、歴代上人本尊
一、日蓮聖人御真骨
頂骨五片あり 池上に於て茶毘の際 日朗上人これを得て終身首に懸け常随給仕の範を示された現在雲玉殿内多宝塔に納められている 上下二段にて 上段宗祖 下設朗師
一、日蓮聖人所持念珠
一、比企大学三郎所持の硯
精巧な浮彫清そな雅致がみられる
一、全あ鐵
一、讃岐の局所持の琴
薄命の佳人讃岐の局は峰の松風に机してよく琴を弾かれたと伝う
一、古文書
五十数通
一、雲盤
建武四年三月五日大工清原宗広の刻銘がある(国の重要文化財)
一、黒塗木杯三個
鎌倉時代の逸品平重衡が千寿前との別宴に用いし器なリ 鎌倉国宝館出品中
一、略法華経 徳川慶喜公筆
一、釈尊涅槃像(画) 鎌倉前期清安法橋の作
一、制札 天正十八年朱印一秀吉よリ一其の他多数
一、下馬札 天正年間
一、心性院日遠上人所持の経机、硯箱、茶碗等
其の他宝物什器多数あれど省略す
◆阿仏尼の歌
有名な十六夜日記の作者阿仏尼は比企谷常栄寺の附近にも住んでいたことがあると伝えられている。尼はもと安嘉門院の侍女で四条と称し、藤原定家卿の嫡子である為家の夫人である。此処に住みし頃の歌が其の十六夜日記にある。
しのびねは比企の谷なるほととぎす
くもゐにたかくいつかなのらん