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戒光寺(丈六さん)

名称 戒光寺
住所 605-0977 京都府京都市東山区泉涌寺山内町29
拝観時間 9:00~17:00
拝観料金 無料 ※内陣特別参拝4月1日~15日  11月中旬~下旬  特別拝観料500円
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御寺泉涌寺塔頭(たっちゅう)の一寺で、安貞2年(1228)宋国から帰朝した曇照忍律(どんしょうにんりつ)上人により八条大宮の東、堀川の西に創建され、後堀川天皇の勅願所となった。
その後、一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て正保2年(1645)に現地に再興された。
本尊釈迦如来(重要文化財)は運慶・堪慶父子の合作、極彩色で宋風をおび、他に例をみない木彫の大仏であり、鎌倉時代の代表作でもある。
後陽成天皇皇后の御信仰や後水尾天皇の守護仏としても深く信仰されて再三勅願所となり、「身代わり丈夫さん」と呼ばれ皇室の御祈願所として栄えた。
京都八釈迦の一つにかぞえられ、嵯峨及び千本釈迦堂本堂とともに一般庶民にも深く信仰されている。

◆縁起
皇室の菩提寺である真言宗 泉涌寺派総本山御寺 泉涌寺の塔頭で、総門をくぐると左側にある初めての寺院である。
当山の開創は鎌倉時代、後堀川天皇(在位1221年~1232年)の安貞2年(1228)、帝の勅命によって八条大宮の東と、堀川の間に建立され、後堀川天皇の勅願所として皇室、庶民の尊崇を集めた。
しかしながら、239年後の応仁元年(1467) に勃発した応仁の乱により堂舎はことごとく灰塵に帰したが、本尊釈迦如来立像と開山曇照忍律上人座像は兵火を逃れ一条戻り橋の元誓願寺辺りに移転、更に三条河原町に移転されだ。現在地に移転されたのは、正保2年(1645)後水尾天皇の発願により後光明天皇の時代に移転されたのである。
尚、八条大宮の東と一条戻り橋の東には現在も戒光寺町の名前が残り、昔を偲ぶことができる。

◆本尊の釈迦如来立像(重要文化財)
宋風をおびた極彩色の寄せ木造りで、鎌倉時代の仏師「運慶・湛慶」父子の合作と伝えられ、身の丈一丈八尺 (約5.4メメートル)、総丈三丈三尺(約10メートル)に及ぶ世に比類の無い大仏であり、重要文化財に指定されている。世lこ「御身代わりの丈六さん」と呼ばれているが、古来より大きな佛様を丈六仏と呼んだそうである。
寺伝によると、後水尾天皇が東宮(皇太子)の時に御即位争いが起こり、危うく命を落とされようとしだ時に、釈迦如来が御身代わりに立たれたそうである。その証が像の首元にある刀傷と血の跡である。後水尾天皇はこれを大変尊び「万歳の後までも崇め奉らん」と、皇室ゆかりの泉涌寺の地に移されだのである。
これ以降、 特に首上一切の病気平癒と御身代わりの仏様として信仰され、御祈涛を願われる方も多く現在に至っている。

◆開山淨業律師(1187~1259)(重要文化財)
曇照忍律上人と呼ばれ、28才で入宋求法。鉄扇守一師より戒律を学び奥義を極められ、宋の理宗皇帝より忍律の称号を受け帰朝、後堀川天皇より曇照の勅号を賜り、戒律復興に努められだ大徳である。
2度目の入宋の後仁治2年(1241)東林寺を建立、現在は廃寺となっているが、泉涌寺門前の南側に東林町という町名のみが残っている。
尊像は律僧特有の袖の大きな衣を着け、合掌して座す柔和な表情をした像であり、晩年の端座合掌して入滅した姿を彫刻したものと伝えられる。

◆泉山融通弁財天(秘仏)
境内に祀られている「弁財天」は、泉山融通弁財天と呼ばれ、伝教大師・最澄御作と伝えられる木造極彩色の八臂座像で秘仏である。世のあらゆる願い事を成就させる尊天として融通さんと呼ばれ、古来よりお百度参りをし、所願成就を祈願する信者が後を絶たない。
特に1月の成人の日に行われる七福神巡り、11月3日の弁財天大祭には、特別御開帳があり参詣者で賑わう。

◆御陵衛士の墓所(元新撰組隊士)
戒光寺墓所には幕末の勤王万元新撰組志士伊東甲子太郎 .藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物ら悲運の高台寺党の墓地があります。

京都府京都市東山区泉涌寺山内町29

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