名称 | 東福寺 |
住所 | 605-0981 京都府京都市東山区本町15丁目778 |
拝観時間 | 9:00~16:00 境内は無休無料で拝観可 秋の拝観期間中 拝観時間: 8:30~16:30 受付終了:16:00 |
拝観料金 | 大人 400円 大学生 400円 高校生 400円 中学生 300円 小人 300円 (通天橋、普門院庭園) 方丈庭園も同額 拝観常時2箇所 |
URL | http://www.tofukuji.jp/ |
恵日山(えにちざん)と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎(かてい)2年(1236)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん)(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256)完成した。
その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。
明治14年に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。
禅堂(禅僧の坐禅所)、東司(とうす)(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。
本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。
◆由緒
摂政九条道家が、奈良に於ける最大の寺院である東大寺に比べ又、奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日山東福寺である。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費して完成したのである。工事半ばの、寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、先ず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失した。延元元年8月の被災後4ヵ月目には早くも復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経通により仏殿の上棟が行われ、延元の火災以後実に20余年を経て、再び偉観を誇ることとなった。建武被災の直前には既に京都五山の中に列せられていたから、再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。
仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝えたが、惜しくも明治14年12月に仏殿・法堂(はつとう)・方丈・庫裡を焼失した。その後、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9年4月に落成、明治23年に方丈、同43年に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築物に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しているのである。しかも開山国師・画聖兆殿司(ちょうでんす)を中心とする鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぽる。
◆本堂
昭和9年4月17日落慶、高さ25.5米、間口41.4米、奥行33.3米、用材は台湾阿里山檜、柱に日蓮宗門徒寄進のものがある。聖一国帥の恩に報いて日蓮上人が奇進した前例に従ったもの。天井の画竜は堂本印象氏の力作で、毎年3月14・15・16日に兆殿司の涅槃像図(我国最大)の大幅が掲げられる。
◆三門
応永年間(1394~1428)の造営とも、その以前、北朝至徳年間(1384~1387)の建築とも言われ、日本最古の三門で国宝に指定されている。足利義持の妙雲閤の扁額(畳3枚大)を掲げ、楼上天井には画聖兆殿司・寒殿司の彩画がある。正面約25.5米。側面10.2米。棟高さ約22米。四隅添柱は秀吉の補強。
鎌倉時代に九条道家が創建した東福寺は、臨済宗東福寺派大本山。「伽藍面」と称されたかつての威容を偲ばせる中世の禅宗建築か今も残る。三門(国宝)は、室町時代再建の禅宗三門としては日本最古で最大の門。高さ22メートル、大仏様・禅宗様・和様を組み合わせた造りで、市内一望の楼上には宝冠釈迦如来像や十六羅漢像を安置する。柱や梁には画僧・明兆(兆殿司)らによる宋・元風の彩色文様が施され、極彩色の天井画が残る。
◆禅堂(重要文化財)
南北朝時代貞和3年(1347)建立、最古最大の道場である。
◆浴室(重要文化財)
室町時代の建築で、内部は蒸風呂形式である。
◆東司(とうす)(重要文化財)
室町時代(15世紀より16世紀前期まで)の建築の便所である。
◆仁王門(重要文化財)
八脚門で南北朝時代明徳2年(1391)建築、万寿寺の遺構。
◆愛染堂(重要文化財)
八角円堂、南北朝時代の建築、元の万寿寺のもの。
◆六波羅門(重要文化財)
平家六波羅第の遺構を移建。
◆月下門(重要文化財)
月華門とも書き、亀山天皇皇居のものを普門寺(今の普門院)の総門とされた。鎌倉時代文永年間(1264~1274)の建築。
◆通天橋
普明国師の扁額を掲げ開山堂への歩廊として架設されているが、昭和34年8月崩壊36年11月改架された。両辺は楓樹が多く、通天の三葉楓は宋国の原産である。渓は洗玉澗という。
◆開山堂(重要文化財)
聖一国師入定の地、塔所。九条道家が国師の為に普門寺を建て更に一条実経が常楽庵を贈った。上層伝衣閣に布袋和尚像を安置し伏見人形の源となっている。
十三重石塔当寺創立祈願の為造立。(重要文化財)
◆方丈・庫裡
方丈は明治23年、同唐門は42年に造営。庫裡は翌年に再建された。唐門・庫裡は昭憲皇太后の恩賜建築である。
◆方丈庭園
昭和造園の権威重森三玲氏作庭の八相庭で、南庭は禅院式枯山水、東部に北斗七星、西部に大市松模様、北部に小市松模様を表わし、鎌倉期の手法を用いている。
開山堂前にも延宝頃改修の室町期の名園がある。
◆名宝
東福寺重宝中、国宝重要文化財に指定されているものは、建築の他に仏像23、絵画108、文書・典籍類が260点ある。
◆聖一国師
円爾辮円といい、三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝について禅戒を受け、嘉禎元年(1235)34才で宋に渡り、在宋6年、杭州径山の無準の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝した。先ず筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243)には藤原(九条)道家に迎えられて入京、道家に禅観密戒を授けた。次いで東福寺開山に仰がれ、同4年(1246)2月には山内の普門寺を贈られて常住した。その後、宮中に宗鏡録を進講し、後深草天皇の勅を奉じて、京都岡崎の尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し、又時には延暦寺の天台座王慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられ、遂に建長6年(1254)には幕府執権北条時頼に招かれて、鎌倉の寿福寺に住することになった。
翌7年6月、一条実経の東福寺落慶供養に当り帰山、爾来東福寺に住し、弘安3年(1280)10月17日79才で入定した。聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので日本禅僧最初の賜号である。中国(宋)より帰朝に当っては多くの文献を伝え、文教の興隆に多大の貢献をしたが、又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し所謂静岡茶の原種を伝えたことも見のがせない功業である。国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は、南禅寺の開山に迎えられ、聖一国師の偉徳を更に顕現した。