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海住山寺

名称 海住山寺
住所 619-1106 京都府木津川市加茂町例幣海住山境外20
拝観時間
拝観料金
URL http://www.kaijyusenji.jp/

海住山寺は、天平7年(735)、聖武天皇の勅願により、東大寺の良弁僧正が開創したと伝えられています。
山上の伽藍は貞慶が復興してからのもので、本堂の傍らにそびえる五重塔は、山並みに映える鎌倉時代の傑作で、国宝に指定されています。
十一面観音立像や文殊堂、絹本著色法華経曼荼羅図、海住山文書はいずれも国の重要文化財に指定されています。

『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の百人一首の歌で知られる瓶原(みかのはら)を一望におさめる地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ6年前、天平7年(735)のことと伝えられております。大廬舎那仏造立を発願あそばされた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を奉安して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとのことです。しかし、この寺は、保延3年(1227)に灰熔の厄に遭い、寺観のことごとくを失ったのであります。
その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃祉に移り住み、海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。
観音様の浄土は南海の洋上にある補陀洛山であります。浄土とは、生ある限りいかなる人も対決しなければならない人間苦・人生苦を解決した真実の楽しみの世界を意味し、この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧にめざめ、生きとし生けるものをいつくしむ慈悲を行ずる道)にほかなりません。
解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所とさだめて、観音の浄土にちなんで海住山と名づけられたのでありました。
瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみは、あたかも南海の洋上に浮かぶ補陀洛山のごとくであり、とりわけうす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものかとさえ思われます。

解脱上人貞慶(1155~1213)は、左少弁藤原貞憲の子で、幼くして興福寺に入り、党憲に師事してひたすら研学につとめ、維摩会・最勝会の講師までも歴任した商都仏教界随一の学僧であり、身をつつしむこときびしく、壮年に至り感ずる所あって笠置山にかくれ、名利をのがれでもっぱら徳をつまれた方でありましたが、晩年その心境がいっそうひらかれるにつれて、人々を教化して仏道にむかわしめるために、この海住山寺に移り住まれたのでありました。
上人は、弟子たちに「官同勢名誉を望むは自己継承の人にあらず」と常におしえて戒律をおごそかにし、当山の草庵に移られてからも、戒律復興のため、南都輿福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とされております。
この常書院からは、後に四大寺の輿正菩薩叡尊や唐招提寺の大悲菩薩覚焼などすぐれた高僧が輩出し、めざましい活躍をされています。
上人には「唯識論尋思鈔」・「法相宗初心略要」・「法華開示抄」など当時の仏教学の最高水準をゆく幾多の著述がありますが、その深い内省ときびしい求道を物語る書に「愚迷発心集」があって、読む人の衿をたださせます。かの法然上人が浄土宗を聞かれたとき、その徒の中には教をあやまり風儀をみだすものがありましたので、これを憂えて「興福寺奏状」を起草したのも上人であったと伝えられております。
かかる世にたぐい稀な学徳兼備の高僧解脱上人の衣鉢をついだのは、慈心上人覚真(藤原長房、1170~1243)でありました。
覚真は、後鳥羽上皇の側近でありましたが、当山で出家し先師の遺志をうけていよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくしました。
現存の五重塔は、建保2年(1214)、先師一周忌の供養に際して解脱上人が後鳥羽院から拝領した東寺、唐招提寺の仏舎利を納めるために覚真が完成させたものであり、小さいながらもよくととのい、特に心柱が初層で止められている点と裳階(もこし)が付けられているところは建設史上有名であります。

京都府木津川市加茂町例幣海住山境外20

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