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海龍王寺

名称 海龍王寺
住所 630-8001 奈良県奈良市法華寺町897
拝観時間
拝観料金
URL http://www.kairyuouji.jp/

飛鳥時代に毘沙門天を安置して建立された寺院を、天平3年(731)遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄昉が、一切経五千余巻と新しい仏法との両方を無事に我が国にもたらすことを願ったのと、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため光明皇后により海龍王寺としてあらためられました。

玄昉が帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、乗船に収められていた海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから遣唐使の航海安全祈願を営むようになり、現在も旅行や留学に赴かれる方々が参拝をされています。

また、写経も盛んに行われていたようで、光明皇后御筆とされる自在王菩薩経。般若心経の原本である弘法大師御筆とされる般若心経(隅寺心経)が伝えられています。

創建当時の建物は奈良時代の五重塔として唯一現存する五重小塔(国宝)と西金堂(重文)が残り、本堂(江戸時代・市文)には聖武天皇から賜った寺門勅額(重文)をはじめ、金泥のお姿に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)などが安置され、同時期に建立された経蔵(重文)とともに、趣き深いたたずまいを創り出しています。

◆由緒
此の場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院が在り、藤原不比等が邸宅を造営した際にも取り壊されることなく屋敷の東北に取り込まれる形で存続していましたが、光明皇后の御願により天平三年(731)、新たに堂舎を建立して伽藍をあらためたことで、海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むこととなりました。
海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が、一切経・五千余巻と一切経に基づく新しい仏法を無事に我が国にもたらすのを願ったことと、飛鳥時代から北の方角を護る毘沙門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城宮の東北(鬼門)を護るためでありました。

海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(734)十月、唐から帰国の途中、玄昉らが乗った四隻の船団は東シナ海で暴風雨に襲われ、玄昉が乗った船だけがかろうじて種子島に漂着することが出来、翌天平七年(735)三月、帰京を果たしました。

この時、玄昉が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきょう)という経典が収められており、東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴重な多数の経典をもたらした玄昉は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持にも任ぜられました。

海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、玄昉が起居した海龍王寺において海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜りました。

この時期、海龍王寺では写経も盛んに行われていたようで、光明皇后が般若心経および自在王菩薩経を一千巻書写され、後の時代には弘法大師空海も自身の渡唐の安全祈願のために一千日間参籠して般若心経一千巻を書写されており、大師の遺巻とされる般若心経の写経(隅寺心経)が残されています。

その後の沿革は余り明らかではありませんが、鎌倉時代の嘉禎二年(1236)、西大寺を中興した興正菩薩叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(1288)三月に殿堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く伝えられています。

これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたことは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知ることができ、また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一ヶ寺に選ばれ真言宗の特徴である加持や祈祷も盛んに行われていました。

鎌倉時代に隆盛を迎えましたが、京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打ち壊しや略奪に遭い、また、慶長の地震が重なったことで壊滅的な打撃を受けました。江戸時代になると、徳川幕府より知行として百石を安堵されたことで伽藍の修復や維持・管理が行えるようになり、本堂の解体修理や仏画の修復がなされ、「御役所代行所」としての役割も果たしましたが、明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、東金堂や多数の什器を失い荒廃にまかされていましたが、昭和40年から42年にかけて西金堂と経蔵の解体修理が行われ、以降、境内の整備や修復が進められています。

◆五重小塔(国宝 天平時代前期) 
創建当時から西金堂内に安置され細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている 

天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存していないのでこの点でもこの小塔の価値が高く国宝に指定されている 

屋内で安置する事を目的とした為、近くから見た時の工芸的な性格を考え小塔の外部は細部にいたるまで忠実に作られている またこの事は寸法取りにもあらわれ上層部にいくにしたがって塔身が細くなっている事から上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っている事がうかがい知れる

奈良県奈良市法華寺町897

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