名称 | 粟田神社 |
住所 | 605-0051 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町1 |
拝観時間 | 6:00~17:00 |
拝観料金 | 無料 |
URL |
大己貴命の疫病除け御神託による創建で、‘牛頭天王’を祭った粟田口の総社だった。
のち天台宗青蓮院門跡の鎮守社に。
社殿は平安初期にできたが江戸中期から末期に本殿、拝殿とも再建。
スサノオノミコトを祭り、厄除け、旅立ち守護の神。
「粟田祭」は10月体育の日前々日・前日・体育の日・15日。
体育の日前日は祭の呼びもの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が大燈呂とともに知恩院前の「瓜生石」前にて「れいけん」の祭りを行った後に夜渡りする。
体育の日は神幸祭で剣鉾巡行と神輿渡御。15日は例大祭。
この剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。
◆由緒
平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。天皇ただちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願された。その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王素盞嗚尊に縁の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられた。
興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祭りした。
また一説には上古、粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。
◆粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿
粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。
社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。
本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である