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西大寺

名称 西大寺
住所 631-0825 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5
拝観時間
拝観料金
URL http://www3.pref.nara.jp/kankou/1071.htm

創建は奈良時代の天平宝字8年(764)称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。
造営は翌年天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられていますが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に110数宇の堂舎が甍を並べていました。
文字通り東の東大寺に対する、西の大寺にふさわしい官大寺でありました。
その後平安時代に再三の災害に遭い衰退しましたが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修根本道場として伽藍を整備されました。現在の西大寺の伽藍は、ほぼこの頃の様子を伝えています。

◆由緒
西大寺の創建は奈良時代の天平宝宇8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。

造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。

文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後、平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰退した。

しかし鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201~1290)がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。

興正菩薩は鎌倉時代の南都四律匠の一人で当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後、西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として寺宝や宗教的によくその寺格と由緒をしのぶことができる。

◆愛染明王坐像
わずか一尺ばかり(31.8cm)の小像であるが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や深紅の彩色が鮮やかに残っている。

先年、像内からは木造六角幢形の容器に入った金銀製舎利容器や、この像の本軌である瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)、造立願文(ぞうりゅうがんもん)などが発見された。

それらによると、この像は宝治元年(1247)に叡尊が願主となり、仏法興隆の念持仏として仏師善円が造ったものであることが分かった。

この愛染明王象は、寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役(13世紀後半に起こった蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。

これにちなんで、近世(宝暦四年)にこの像が江戸回向院に出開帳された時、2代目団十郎が中村座で「矢の銀五郎」を上演し、また鳥居清信(江戸時代の浮世絵画家)が描いて奉納した絵馬が当寺に現存する。

◆興正菩薩叡尊坐像
西僧房造営と同じ弘安3年(1280)8月26日に、弟子たちが仏師善春に造らせた師匠の肖像である。左手に払子をもち、衣の袖を左右に分けて、少しうつむきかげんに静かに坐る。像はきわめて写実のかった、まるで実在の人に接するような気魄に満ちたものである。
眉太く、鼻が大きく、口のひきしまった顔と、がっちりした頭の骨格からは、いかにも意思の強固な叡尊の偉大な人格を実感できる。わが国の肖像彫刻中、傑出したできばえを見せているが、また生前に造られた寿像として特異な地位を占めている。

先年、像内からおびただしい納入文書類が発見され、数千人におよぶ弟子僧俗の結縁によって、しかもそれぞれ文字通り一紙半銭の零細な喜捨が結集されて造られたものであることが明らかとなった。なお、仏師善春はさきの仏師法橋善慶の子息で、また善円・善慶の後継者として叡尊の知遇を受けた善派仏師である。

奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5

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