名称 | 金剛寺 |
住所 | 605-0036 京都府京都市東山区五軒町124 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
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当寺は山号を一切(いっさい)経(きょう)山(ざん)とする浄土宗の寺院である。
奈良時代、天平(てんぴょう)年間に行基(ぎょうき)が東岩倉山(左京区)の一切(いっさい)経(きょう)谷(だに)に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上(かみ)の堂」とも称した。
伝えでは、行基は丈六(じょうろく)の阿弥陀如来像を彫ったとされる。丈六とは仏像の理想の大きさで一丈六尺(約四.八m)の略。座れば一丈程度(約三m)になる。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃したが,伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者たちが見つけだし、それを粟田の地に遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(こも)(わら)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから、今も蹴上には「小物座(こものざ)(蔣座)町」という地名が残る。 以降、地元の住民たちによって御堂は守られ信仰されてきたが、 慶長(けいちょう)七年(一六〇二)に岌(きゅう)然(ねん)上人が、青蓮院門跡の許可を得て、 現在の地に堂を移し寺を再興した。
正徳(しょうとく)三年(一七一三)には 本尊が修復され、享保(きょうほう)十五年(一七三〇)には本堂が建立され、 現在に至る。 また当寺は「洛陽(らくよう)四十八(しじゅうはち)願所巡り」の第二十七番の札所であり、慶長年間の頃から、朱印に「行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ)御作(おんさく) 出陣(しゅつじん)の弥陀(みだ)安置(あんち)」という印を捺している。
京都府京都市東山区五軒町124