名称 | 鎌倉宮 |
住所 | 神奈川県鎌倉市二階堂154 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
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鎌倉宮は大塔宮護良親王を奉斎する神社です。
親王は延慶元年(1308)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり十一歳で比叡山延暦寺に入室され、二〇歳にして天台座主となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ、親王と共に元弘元年六月比叡山にて倒幕の挙兵をする手筈でしたが、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ隠岐に配流となります。
親王は還俗し、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大軍を吉野城や千早城に引き付け、この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村が六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。天皇は京都に還御され親王はこの功に因り征夷大将軍となられます。しかし、高氏は征夷大将軍を欲し更に、諸国の武士へ武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し兵を集めますが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢に幽閉されます。建武二年(1335)七月二十三日残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた高氏の弟直義は逃れる際に、家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じ、義博の凶刃に、親王は九ヵ月をも幽閉された御身では戦う事も出きずに御年二十八歳の若さでその苦闘の生涯を薨じられます。
明治二年二月・明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に遙かに想い馳せられ、親王のご遺志を高く称え永久に伝えることを強く望まれ、親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら社号を『鎌倉宮』と名付けられ、こうして創建されたのが鎌倉宮です。
◆撫で身代りの由来
村上義光公は、護良親王の忠臣にして、元弘3年(1333年)正月、吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。
そこへ村上義光公が鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき、自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて、腹を一文字に掻き切り、壮絶な最後をとげ、その間に親王は南に向って落ちのびました。
このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ、「撫で身代り」として入魂致しました。
◆鎌倉宮と獅子頭守
御祭神の護良親王は。「戦いに赴かれる際兜の中に獅子頭のお守りをしのばせて、自らを守っていただいた」との言い伝えがあります。また獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」と言われています。