名称 | 黄梅院 |
住所 | 603-8231 京都府京都市北区紫野大徳寺町83-1 |
拝観時間 | 10:00~16:00 |
拝観料金 | 600円 |
URL |
大徳寺塔頭。永禄五年(1562)織田信長父・信秀の追善供養のために信長の創建、「黄梅庵」と名づけた。
下って天正14年(1586)、豊臣秀吉、小早川隆景に依って本堂、庫裏、唐門等諸堂の改築がなされて、「黄梅院」と改め塔頭の一つとなる。
それぞれ国の重要文化財に指定されている。
障壁画(雲谷等顔、等益筆 重文)や武野紹鴎の茶席「昨夢軒」や千利休の作庭した「直中庭」等、室町時代の遺構を今に伝えられてきていて興味深い。
◆由緒
当院は臨済宗大徳寺派大本山の塔頭のひとつである。「黄梅院」とは、お釈迦様から代を重ねて32代目・弘忍大満禅師のゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来し名付けられた。
永禄5年(1562)織田信長公が28歳のとき羽柴秀吉を伴い初めて入洛すると信長公は秀吉を京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために普請を命じ小庵を建立させた。この小庵は大徳寺98世住持・春林和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが当院の始まりである。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により信長公が急逝すると、同年10月15日密葬され、その後、秀吉は「黄梅庵」に築を加える。しかし主君の塔所としては小なりとし、信長公の法名・総見院殿より総見の名を採り山内に別に「総見院」を建立し、お祀りした。当院は築を新たにし、天正14年5月秀吉によって本堂と唐門が改装され、天正17年(1589)鐘楼・客殿・庫裏等を小早川隆景普請奉行のもとに改築落慶し、この年「庵」を「院」にあらためています。
◆直中庭
利休66才の時に作られたものである。秀吉公の希望による軍旗瓢箪をかたどった池を手前にし、大徳寺2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったと伝える不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯篭を左に配した苔一面の池泉式枯山水庭園である。
◆破頭庭
本堂前庭に位置する。半分手前を白川砂で半分向いを桂石で区切り苔を配し観音・勢至の二石でまとめられた簡素な庭で天正年間に作庭されている。
◆庫裡(重要文化財)
切妻造板葺で、火番寮・典座寮・納所寮・知客寮・旦過寮とそれぞれの寮舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代によく伝えている。小早川隆景の寄進によって天正17年4月に完成。日本に現存する禅宗寺院の庫裡として最古のものである。庫裡は火を扱う所であり、火災を起こしやすいため古式の庫裡は残存しにくい。故に現存している遺構として貴重である。昭和60年12月解体修理が施された。
◆本堂(重要文化財)
禅宗特有の様式がよく表された本瓦葺入母屋造である。内部は室中と仏間を中心に檀那の間・礼の間・大書院の間に分かれている。天正14年5月に秀吉公の援助により落慶している。昭和52年、400年ぶりの全面解体工事がなされた。
◆唐門(重要文化財)
建立は本堂と同じ年に完成されている。
◆表門
天正17年完工され、庫裡の造営と同じく小早川隆景によって寄進されている。なだらかな兜型の門である。平成17年、修理を施された。
◆鐘楼
鐘は1592年加藤清正によって寄進されたもので朝鮮伝来のものと伝う。現存の鐘楼は益田玄播守によって建立された。獅子頭の彫刻が施されている。平成17年、修理を施された。
◆書院自体軒
大徳寺開山大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名とした、千利休の茶道の師である武野紹鴎作の作夢軒という茶室がある。平成23年、修理を施された。作夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている。
◆襖絵
桃山時代のもので重要文化財に指定されているが、現在の襖絵は複製になっている。本堂の中には雲谷等顔の水墨壁画が収められている。室中には竹林七賢図・檀那の間に西湖図・礼の間に芦雁図等四十四面となっている。
◆作仏庭
本堂北裏側に位置し北東に枯山水の滝を表す立石を配し、本堂前の破頭庭へと連なった作りである。生々流転を表したものか。