名称 | 安楽寺 |
住所 | 602-8341 京都府京都市上京区三軒町 |
拝観時間 | 9:30~16:30 |
拝観料金 | 春・秋特別公開日のみ拝観可 大人 500円 大学生 500円 高校生 500円 15歳(中学生)以下無料 |
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住蓮(じゅうれん)山と号し、浄土宗の寺院である。
鎌倉時代の初め、現在地より東1キロメートルばかりのところに、法然上人の弟子住蓮房・安楽房二僧が念仏道場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま、後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって二僧は死刑、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと配流された。
これがいわゆる建永2年(1207)の法難であるが、下って室町時代の末、天文年間(1532~1555)二僧の供養のため伽藍をこの地に再興したのが当寺である。
本堂には本尊阿弥陀三尊像を安置し、傍に住蓮・安楽両上人、松虫・鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。
また、境内右手に住蓮・安楽両房の五輪石塔、東方山林中に松虫・鈴虫両姫の五輪石塔がある。
この寺は、鎌倉時代のはじめ浄土宗元祖法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1キロメートルのあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結んだことに始まる。
住蓮上人と安楽上人は、唐の善導大師の『往生礼讃』に譜曲を附し、六時礼讃声明を完成された。両上人が勤める声明は、まことに美しく、参詣者の中には出家して仏門に入る者もあった。その中に、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫姉妹がおられえ。両姫は容姿端麗で教養も重富であった。上皇からことさら寵愛を受けていたために、他の女官たちからの嫉妬も相当なものであったという。両姫は、虚飾に満ちた御所での生活に苦悩し、心の平安を求め、いつしか出家を望むようになった。
建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参詣の留守中に、両姫は清水寺で法然上人の説法を聴聞し、念仏(南無阿弥陀仏)によって救われるほかに道はないと自覚された。御所に反られてからもその説法が忘れられず、夜中密かに御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵Jを訪れ、雨上人の前で剃髪出家し、尼僧となった。時に松虫姫は19才、鈴虫姫は17才であった。
この事を知った上皇は激怒し、この出求事をひとつの口実として専修念仏教団に対し弾圧を企てた。翌建永二年(1207)二月九日、松虫姫を出家させた住蓮上人は、近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)において斬首に処された。また鈴虫姫を出家させた安楽上人は京都六条河原(現在の泉本願寺近く)において斬首に処せられた。この迫害はこれに止まらず、法然上人は七十五歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪、親鸞上人は越後国(現在の新潟県上越市)に流罪に処された。
その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生ロ島の光明坊に移り、念仏三味の余生を送り、松虫姫は35才、鈴虫姫は45才で往生を遂げたと伝えている。
また両上人の亡き後「鹿ヶ谷草庵」は荒廃したが、流罪弛から帰京した法然上人が雨上人の菩提を弔うために草庵を復興し、「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺とした。その後、天文年間(1532~1555)の末、現在地に本堂が再建され今日に至る。
[松虫姫鈴虫姫和讃]
松虫姫と鈴虫姫が、住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣を求め、出家する経緯が七五調の句を重ねた美い、調べをもって語られている。安楽寺では、4月と11月の両姫の祥月忌に和讃法要を勤めるほか、毎月一度、和讃月例会を聞いている。
[中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供妻:]
毎年7月25日に、京都お伝統野菜の一つである瓢箪型をした鹿ヶ谷カボチャを煮炊きしたものを参拝者に振舞い、中風にならないようにと願う行事がある。併せて、当山の宝物(掛軸)の虫干しも行う。
【くさの地蔵 地蔵縁日復興】
安楽寺の地蔵菩薩立像(くさの地蔵)は、古くから皮膚病や腫蕩平癒にご利益あリと信仰される。平成3年(1991)の解体修理で胎内に墨書銘が認められ、鎌倉時代中期の正嘉2年(1258)5月2日の作の木造であり、作者も慶派の仏師であることが判明した。2015年5月2日、地蔵堂が再建されたことに合わせて、「地蔵縁日」も150年ぶリに再開された。