名称 | 恋塚寺 |
住所 | 612-8466 京都府京都市伏見区下鳥羽城ノ越町132 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
URL | http://www.geocities.jp/koiduka_dera/ |
利剣山(りけんざん)と号する浄土宗の寺院である。
寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤(えんどう)武者盛遠(もりとう)が、渡辺佐衛尉源渡(みなもとのわたる)の妻、袈裟(けさ)御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。
盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚(もんがく)と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。
本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。
境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。その傍の六字名号石は、法然上人の筆で文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。
◆由緒
袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである。
それは渡辺の橋が完成したその供養の日のことである北面の武士あった盛遠は、その日警備にあたっていた年は若干17才、はち切れそうに逞しい青年武士である盛遠には青春の血潮が燃え盛っていた。だからこの日橋のたもとで一目見かけた渡の妻、袈裟の姿に、今まで持っていた情熱が、黄恋慕というかたちであらわれたのである。
そのうえ袈裟は、
青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眦最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不斜、毛嬙西施が再誕歟、観音勢至の垂跡歟
といわれるほどの美人であってみれば、心を奪われたのも当然であった。ただ盛遠の、今見出したこの恋への執念は、みさかいのない高まりにまでなっていった。
思案のすえ、盛遠は袈裟の母、衣川の許もとに行き、やにわかに刀を引き抜くや
袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也
この強迫にしかたなく衣川は袈裟を呼び寄せることを約束する。しかし約束はしたものの、もし盛遠と袈裟を合わせば渡の怨を受けることは明らかであり、約束を破れば本当に盛遠は衣川を殺すであろう。迷った衣川は娘のもとに仮病を使って手紙を出す。そして「返々忍びて只一人おはしませ」と書き添える。
驚いて飛んで来た袈裟を前に、衣川は涙をながしながらいきさつを話し、小刀を取り出して、「武者の手に係りて亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へ」とさめざめと泣く。袈裟もこの無理難題には驚くが、年老いた母の命には代えられない。渡の事を想えば胸張り裂ける気持であったが盛遠の申し出を承諾する。
もはや死を決した袈裟は、
誠に浅からず思し召すならば、只思い切って左衛門尉(渡)を殺し給え、互いに心安からん、去らば謀を構ん・・・我れ家に帰って、左衛門尉が髪を洗わせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜って殺し給え
と話す。盛遠は大いに喜び、夜討のしたくをして日の暮れるのを待った。
家に帰った袈裟は夫渡と二人だけの酒盛をもうけ、いつもより多くの酒をかれに勧め、酔いつぶれた夫を張台の奥に休ませると、自分の髪を濡らし、烏帽子を枕元に置き
露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき
と辞世の句を書き終えるや、燭台の火を吹き消すのであった。運命の時が至るのを、激しく乱れ打つ胸の鼓動を静めながら袈裟は待ったのである。
一方盛遠は今宵首尾よくいけば、念願の袈裟御前が自分のものになる。そう思えばおのずと浮き立つ心をしずめながら、打ち合わせたとおり闇夜にまぎれて、今は渡に身をかえている袈裟の枕元にそれとは知らずに近づくのであった。手を伸ばせばしめし合わせた通りのぬれた髪ざわり「シメタ」とばかり、かれは唯一刀のもとに首をはね、袖にくるんで持ち去ったのである。しかし月明りのもとに照らし出されたその首は恋しい袈裟その人であった。
盛遠は袈裟の首を前にしてはじめて、自分の罪業深き身と世の無常をつくづくと感じ、ついに出家して文覚と改めたのである。頼朝に挙兵をうながしたという荒法師文覚は、この盛遠の後の姿であった。
本寺は利剣山恋塚寺と称し、境内に高さ数尺の宝筐院塔あり恋塚と称し、袈裟御前の首塚と傳えられる。また縁起石碑あり、表には渡辺左衛門尉源妻袈裟御前秀玉善尼之墓所天養元年六月文覚上人開祖恋塚根元之地、嘉應二年建立とある。
本寺の縁起物語は古来より人口に膾炙し、人倫の大道を教えるものとして、物語、小説などによって傳えられている。
古くは「源平盛衰記」より近くは芥川竜之介の「袈裟と盛遠」にいたるまで十指に余るほどである。
また、芝居、映画、舞台等にもしばしば企画され、グランプリ映画「地獄門」は本寺の物語を映画化したものであることは周知の事実である。
◆下鳥羽
下鳥羽は昔、草津ともまた木津今津ともいった。名跡志には、草津は下鳥羽なるが、古桂川は下鳥羽の南より辰巳に流れ、淀に合す。鳥羽殿の南門に近かりき、法然上人左遷の時、南門より草津の船に向える。その様子が傳記に載せられている。
また、新拾遺集に、隆信朝臣は美福門院かくれさせ玉ひける御供に、草津と云う所より船にて漕出る。暁の空のけしき浪の音折から物かなしく読侍る。
朝ぼらけ漕行く跡にきゆるなみのあわれ誠に
浮世なりけり
名勝志には、下鳥羽今渡海場、自是乗船古草津者此所也平家物語には、治承四年、上皇(高倉)厳島御幸あり、鳥羽に立寄り法皇(後白河)に御対面あって、草津より御舟に乗玉う。とあって下鳥羽は古来より交通の要路であった。