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浄光明寺

名称 浄光明寺
住所 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目12-1
拝観時間
拝観料金
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当寺は鎌倉市扇ケ谷字泉ケ谷の谷間に位し、泉谷山と号し真言宗。本山は皇室御菩提所として知られる京都東山泉涌寺。創建は建長三年(1251)で開基は武蔵守北条長時(幕府第六代の執権)、開山は真阿和尚(勅謚真聖国師)です。第二世は、永仁四年(1296)真阿和尚より当寺長老職を譲りうけた真了房、第三世は月航和上性仙房道空で、この人は律に秀でた学僧でした。第四世は智庵和上如仙房高慧で、当寺はこの時代に大いに発展しました。

即ち元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、華厳、天台、三論、法相の四箇の勧学院を建立し、学問の道場としての当時の基礎を築いています。又智庵和尚に対する足利尊氏、直義兄弟の帰依も厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進等が行なわれたことを書いた古文書が当寺に残っています。建武二年(1335)尊氏は、中先代の乱で鎌倉を追われた直義救援のため、勅許を得ずに東下し鎌倉に入りましたので、天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ関東へ下向させられました。苦悩に疲れた尊氏は近臣数名と共に、最も帰依していた智庵和尚のもとに参じ、箱根竹の下の戦に発向するまで、当寺にちつ居していました。第五世以後の住持については詳でありませんが、室町時代に入っても鎌倉御所の祈願所として、瑞泉寺殿(足利基氏)、永安寺殿(足利氏満)の分骨を納め、代々の鎌倉公方から寺領安堵を受け寺勢大いに振っていたようですが、鎌倉御所の滅亡と共に当寺も衰微し、その後文明、寛文の二回に亘って興隆されましたが、数度の天災、人災によって往時の栄華は殆んど失なわれました。諸堂の配置は、山門を入って右に不動堂、左は客殿、庫裡、石段を上って正面が本堂、その左に収蔵庫(重文阿弥陀三尊像県文矢拾地蔵菩薩像安置)、その奥が開山堂であります。本堂右手の山上に鎮守稲荷大明神の祠があります。

◆浄光明寺仏殿(本堂)(市指定文化財)
浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺元喬僧都が母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文8年(1668)に再建されました。

元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊を収蔵庫に遷座されたことにともない、浄光明寺の本山である京都・泉涌寺仏殿に倣って三世仏を造像し、過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。

堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の坐像(向かって右)と開山・真阿和尚(真聖国師)の坐像(向かって左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した常滑窯の大甕(鎌倉時代)を置いています。

ちなみに、仏殿右横の石囲い内に建つ大五輪塔は、仏殿再建に資金を提供した元喬僧都の墓で、傍らにはその母親の墓も建てられています。

◆(重要文化財)阿弥陀三尊像(中央阿弥陀如来、右観世音菩薩、左勢至菩薩)
正安元年(1299)頃の作。中世鎌倉地方彫刻の代表的作例で、中尊の依文に施された大形の土紋や、長く伸ばした爪、脇侍の姿勢、写実的な衣文のひだ、高く結いあげた宝髻等に宋朝美術の強い影響をうけたその特徴をあらわしています。

◆(重要文化財)浄光明寺五輪塔(鎌倉時代) 
寺の東方、多宝寺址の最奥にあり、多宝寺長老覚賢和尚の墓塔で、極楽寺の忍性塔、順忍塔とならぶ鎌倉の大型五輪塔の一つ。

◆(県文化財)地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵)
南北朝期の作で、小像ながら衣文に施されたきり金文様や細部彫法に精巧な手法がうかがえます。足利直義の守本尊との伝説を持ち、右手に矢柄の錫杖を持っています。

◆(史蹟)冷泉為相墓
背後の山上にあって宝筐印塔。為相は藤原定家の孫で、父為家の死後遺領細川庄の相続について異母兄為氏と争い、その訴訟のために関東へ下向した母阿仏尼のあとをしたって鎌倉に下り、藤ヶ谷(墓の西北の谷)に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。

◆(市文化財)石造地蔵菩薩像
山上「やぐら」内に安置され正和二年(1313)の作、供養導師は三世性仙和尚。鎌倉の製作年代のはっきりした石仏として貴重なものです。

◆(市文化財)愛染明王像
願行上人の作と伝えられ、元寇に際しての敵国降伏の大祈祷会の本尊といわれています。

◆不動明王像(通称八阪不動)
むかし京都八阪寺の五重塔が皇居の方に向って傾いたとき浄蔵貴所がこの像に祈って元にもどしたことから八阪不動明王と呼ばれていますが、室町時代の作。

◆開山真聖国師像
禅宗の頂相彫刻の流れをくむ像で室町時代の作。

◆開基北条長時像
開山像と同じく室町時代の作で、法体武人像として、鎌倉肖像彫刻の中で貴重な遺品。

◆(市文化財)僧形八幡神画象
南北朝時代の作。弘法大師画像(室町時代)と二幅対をなしていて「互の御影」と称され、むかし両者対面の時、互にその姿を描いたものとの伝説があり、本地垂述思想に基いた仏画として高く評価されています。この地方では他に金沢称名寺のものがあります。

◆三千仏画像
たて二米八十糎、よこ約二米一五糎の大幅で、中央に宋朝の三世仏を描き、周囲には二千数百体の小仏像を描く。南北朝時代の作。

◆開山真聖国師画像
法衣をまとって、曲汞に腰をかけた通常の頂相画。室町時代。他に江戸時代の絵画が十数点あるが、中では仏涅槃図、冷泉為相画像等が見るべきものです。古文書は、尊氏、直義、持氏、義満等足利氏のものを初めとして、中世、近世のものなど数十通を伝えています。

神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目12-1

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