下鴨神社(賀茂御祖神社)

太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神社の一つである。 祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀る。玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗り(にぬり)の矢によって身ごもり、別雷神を生んだという。 賀茂御祖神と呼ぶのはこのためである。 平安遷都(794)後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめた。 境内糺の森は、約12万平方メートル(約3万6千坪)で古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。 社殿は、文久3年(1863)再建の国宝の本殿二棟と重要文化財の殿舎五十三棟などがあり、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。 毎年5月15日、都大路に王朝絵巻を繰広げる葵祭は有名である。 行列が当神社に到着すると「社頭の儀」が行なわれる。また、流鏑馬、御蔭祭など数々の伝統神事が行なわれている。 ◆由緒 平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の祭神である賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母の玉依媛命(たまよりひめのみこと)と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社といい、上賀茂神社とともに賀茂社(かもしゃ)と称される。 平安遷都(794)後は王城の守護神として、朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、弘仁(こうにん)元年(810)以降、約400年にわたり、斎院(さいいん)(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。 江戸末期の文久(ぶんきゅう)3年(1863)に造替された東本殿と西本殿が国宝に指定されているほか、多くの社殿が重要文化財に指定されている。 また、約12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)に及ぶ境内の自然林は「糺(ただす)の森」として市民に親しまれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されている。 毎年5月15日には、京都三大祭の一つである葵祭(あおいまつり)が行われ、御所から当神社を経て上賀茂神社まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰り広げる。また、5月3日の流鏑馬(やぶさめ)神事や7月の土用の丑の日に行われる御手洗祭(みたらしまつり)などもよく知られている。 ◆鴨の七不思議 ① 連理の賢木  3本の内、2本が中ほどでつながっている珍木。えんむすぴのシンボル。 ② 何でも柊   比良木神社のまわりの木は全て葉がギザギザになり柊化する。 ③ みたらし川の水あわ  夏の土用になると清水に足をひたし無病息災を祈る。池から湧く水あわを形どったのが、みたらし団子。 ④ 泉川の石(烏縄手)   紅葉橋のたもとに昔、雨乞いを祈る「こがらし社」があり、願いがかなうと泉川の小石が飛び跳ねた。 ⑤ 赤椿     下鴨の神主は位が高く、他から来るお使いは位が低いことが多かったので、装束に気を使って赤い椿を植え、目立たぬようにした。 ⑥ 船ヶ島・奈良社   日照りや戦乱の時、流れをかき回すと小石が跳ね、願いが成就する。 ⑦ 切芝   糺の森のへそ(真中)、古代からの祭場である。 ◆賀茂御祖神社境内 賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭の事、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。 境内の糺の森は鴨川と高野川の三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。 社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替えで、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。 平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。 弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の西北に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。 また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。 さらに、毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭といえばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇5年(545)にさかのぼる。また、御蔭祭、騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。 このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。

南禅寺

臨済宗南禅寺派の大本山で、正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜わり、無関普門(むかんふもん)(大明国師)規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)によって創建された。 以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行なわれると「五山之上(ござんのじょう)」という最高位に列せられ天下の尊崇を得て今日に及んでいる。 勅使門、三門は重要文化財に、大方丈(清凉殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。 ◆由緒 臨済宗南禅寺派の大本山で、正しくは太平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺という。 亀山天皇が大宮院(おおみやいん)(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を、正応(しょうおう)四年(1291)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師(だいみんこくし))を開山として寺に改めたものである。建武(けんむ)元年(1334)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一位となり、更に足利義満によって五山の上(じょう)という最高位に位置付けられ、隆盛を極めた。 方丈(国宝)は大方丈(清涼殿)と小方丈から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。小方丈には狩野探幽(かのうたんゆう)の筆といわれる「群虎図」(重要文化財)があり、「虎の間」と呼ばれている。また、大方丈の前庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作とされる代表的な枯山水庭園で、「虎の子渡し」として有名である。 禅宗様の巨大な三門(重要文化財)は藤堂高虎(とうどうたかとら)が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。境内の南東には、琵琶湖疏水の流れる煉瓦造(れんがづくり)の水道橋「水路閣」が美しく佇(たたず)んでいる。 ◆三門 南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼と云う。日本三大門の一つで有名である。開創当時のものは永仁三年西園寺実兼の寄進によって建立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失した。 現在の門は藤堂高虎が寛永五年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。 入母屋造り、本瓦葺、五間三戸の純然たる禅宗式三門の形式を備え、その高さ約二十ニメートルで左右の山廊より昇降する楼上には、勾欄を附した廻り縁をめぐらし、内部には正面に仏師左京等の手になる宝冠釈迦坐像を本尊として、その脇士に月蓋長者、善財童子を安置し、その左右に十六羅漢を配置し、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されている。 天井の鳳鳳、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆である。 又、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名である。 門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので、高さ六メートル余りあって、大きさでは東洋第一である。

銀閣寺(慈照寺)

東山(とうざん)と号する臨済宗相国寺派の寺で、足利将軍義政の隠居所東山殿を遺命によって寺としたものである。 東山殿は、文明14年(1482)から建設を進め、東山文化の粋をつくした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。 しかし、永禄元年(1558)の兵火により、銀閣、東求堂を残して建物が焼失し、元和元年(1615)に現在の寺観が整えられた。 銀閣(国宝)は、長享3年(1489)の建立、こけら葺き二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の室となっており、観音像を安置する。 実際には銀箔は貼られなかったが、北山鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣に対し一般に銀閣と呼ばれる。 金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。 東求堂(国宝)は、文明18年(1486)建立の東山殿の持仏堂で、日常生活用住宅建築の遺構としては最古のものといわれ、内部には仏間、同仁斎(どうじんさい)などがある。 同仁斎は茶室の元祖ともいわれるが、元来は書斎である。 庭園は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政が作ったものといわれ、上段石組、下段池泉廻遊式の二段からなり、銀閣とよく調和した名園である。 ◆由緒 銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公による。義政公は、祖父にあたる三代将軍義満公の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。 この東山殿が銀閣寺の発祥である。銀閣寺の名は俗称であり、正しくは東山慈照寺。 義政公の法号慈照院にちなみ、後にこう命名された。 ◆義政公の悲願 銀閣寺は、五山の送り火でしられる大文字山の西、月待山の麓に位置する。東山殿造営当時は、錦鏡池を中心に広がる池泉回遊式庭園の周囲に、大小十二棟の建造物が点在した。その壮麗な景観は、禅の思想と浄土信仰が融合した、義政公の精神世界の投影である。 東山殿当時そのままの遺構が、観音殿(銀閣)と東求堂で、いずれも国宝である。 銀閣寺の象徴とされる観音殿は、一層を心空殿、二層を潮音閣と、それぞれ呼ぶ。 ◆東山文化の伝統 政治の世界から逃れ、ここ東山殿に隠栖した義政公は、芸術三昧の晩年を過ごした。 諸芸道の達人をここに集め、いわゆる東山文化のサロンを形成した。茶道、華道、香道、能などの日本を代表する伝統文化は、この東山文化のなかから生み出された。 その舞台となったのが、東求堂内の同仁斎であり、現存する最古の書院造り、また四畳半の間取りの原型として知られる。 平成5年(1993)に造営された書院には、世界的に評価の高い明治期の画家、富岡鉄斎の襖絵が収められ、東山文化の系譜を今に伝えている。 ◆観音殿(銀閣)(国宝) 鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来、観音殿とよばれた。二層からなり、一層の心空殿は、書院風。二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けている。 ◆東求堂(国宝) 義政公の持仏堂。一層の入母屋造り、檜皮葺きの現存する最古の書院造り。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。北面東側の四畳半は、同仁斎とよばれ東山文化を生み出す舞台となり、また草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれている。

平安神宮

明治28年(1895)桓武天皇の平安奠都(てんと)1100年祭を記念し、桓武天皇を祭神として創建された神宮である。後に、平安京最後の天皇である孝明天皇も合祀された。 社殿は、平安京の政庁の中心であった朝堂院(ちょうどういん)の形式を、約2分の1に縮小して復元したものである。 二層の神門は応天門(おうてんもん)、中央正面一層の入母屋造(いりもやづくり)の拝殿は大極殿(だいごくでん)、拝殿左右の楼閣は、東は蒼龍楼(そうりゅうろう)、西は白虎楼(びゃっころう)と呼ばれている。 いずれも鮮やかな朱で色どられ、ありし日の平安京の姿を偲ばせるものである。また、拝殿の奥には、御神殿がある。 神殿背後の約三万平方メートルからなる神苑は、四つの池を中心に、各時代の庭園形式を幅広く取り入れた池泉廻遊式の庭園で、四季折々に美しい花が咲き乱れる。 例祭は、4月15日。また、10月22日の時代祭には、御所から当宮まで、各時代の風俗行列の巡行がある。 ◆由緒 桓武天皇延暦12年平城の地より山背國に遷都 翌13年10月22日を山城國と改め新都を平安京と称せらる同15年朔始めて大極殿に出御せられてより一千有余年の久しきにわたり我國の首都として平安文化を創造し政治、経済文化の中心地として明治に至る。明治28年は延暦15年より一千百年に当たるをもって、京都市民は此の平安京祖神の聖徳を慕い神霊を奉齋する。 神社の創立を念願し朝堂院を模して大極殿その他を建造同年3月15日平安神宮の御鎮座を見たのである。孝明天皇は弘化3年皇位を継承せられ慶應2年に至る御在位21年の間国情騒然として内治外交又洵に多難なる時局に当たり深慮明敏よく宇内の進運を洞察せられ明治維新の基を開かせられたのである。 孝明天皇奉祀の議夙にあり昭和13年に至り 社殿の増改築境内整備の事業休息に進捗し同15年10月19日神霊御鎮座の儀厳修せられる茲に於いて平安神宮は平安京創始の桓武天皇と最後の孝明天皇の二柱を奉齋し京都の祖神として市民はもとより廣く国民に崇敬せられている。 例祭4月15日 最も重要な祭典にして勅使の参向あり 時代祭 10月22日 平安講社の奉賛により我國著名祭礼の一つとして廣く内外に知らる。 ◆白虎楼 この楼は、東方の蒼龍楼と共に平安京朝堂院の様式を模したものである。屋根は、四方流れ・二重五棟の入母屋造、碧瓦本葺が施されている。 蒼龍・白虎の名称は「この京都が四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地」とされたことに因むものである。 ◆蒼龍楼 この楼は、西方の白虎楼と共に平安京朝堂院の様式を模したものである。屋根は、四方流れ・二重五棟の入母屋造、碧瓦本葺が施されている。 蒼龍・白虎の名称は「この京都が四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地」とされたことに因むものである。 ◆大極殿  古代の役所の建造物のなかで最も重要な建物で、天皇が政務を執られ朝賀・即位などの重要な儀式が行われた。明治28年、平安遷都1100年記念事業として、平安時代の様式を模して建造された。 規模は往時の約二分の一で、屋根は一重、入母屋造で、碧瓦を用いた本葺である。 平安神宮の大極殿は、平安時代の栄華を偲ぶことのできる唯一の文化遺産である。

興正寺

真宗興正派の本山。文明年間(1469-87)佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改め、山科に一宇を建立したのが起こり。 佛光寺の旧称によって興正寺(興隆正法寺)と称した。 その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、1591年(天正19)現在地に移った。西本願寺の南隣。