平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。 4808
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平等院
ときの権力者、関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業を、その子頼通が永承7年(1052)にこれを仏寺に改め、平等院としました。 永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。 その翌年の天喜元年(1053)には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。 約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。 ◆由緒 平等院は今から約950年前、藤原氏の最盛期に、宇治関白藤原頼通によって建立されました。当時は本堂、阿弥陀堂、経堂、講堂等の諸堂が造立され、宏壮華麗な大寺院が現出しましたが、建武三年の兵火によって、その大半が焼失し、現在は鳳凰堂(当時の阿弥陀堂)のみが創建当時の優姿を伝えています。 堂内には定朝作の本尊阿弥陀如来像及び52体の雲中供養菩薩像が安置され、建物、仏像全部が国宝に指定されています。 ◆鳳凰堂 極楽浄土の宮殿をモデルにした鳳凰堂は、中堂・左右の翼廊・尾廊からなる、他に例を見ない建物です。堂内には、平安時代を代表する仏師定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像、本尊阿弥陀如来坐像をはじめ、雲中供養菩薩像52体、9通りの来迎を画いた壁扉画など、平安時代・浄土教美術の頂点が集約されています。
宇治上神社
宇治上神社は、明治維新までは、隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社(りくうかみしゃ)、離宮下社(りくうしもしゃ)と呼ばれていました。 祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子の菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神(おうじん)天皇と兄の仁徳(にんとく)天皇を祀っています。 本殿(国宝)は、平安時代後期の、神社建築として最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。 また、その身舎(もや)の扉には、建立当時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。 ◆字治上神社の不思議 ・ お守りの紋や、おみくじなど、どうしてうさぎさんなの? 皆さんがご存知の当社の地名「宇治」ですが、かっては{うさぎのみち}「菟道」と書いて「うじ」と読みました。当社の御祭神の一柱であられる『菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)』は昔の漢字の「菟道(うじ)」と書きます。 ・ 世界遺産の建物、国宝の建物はどれ? 本殿と拝殿は『国宝』で、それぞれ1060年(康平3年)、1215年(建保3年)頃に建立されたと思われます。歴史資料等が無く、先の年代は「年輪年代測定法」により算出されたものです。春日社は「重要文化財」です。世界文化遺産の指定は当社個別の指定ではなく平成6年に京都の17箇所同時に「古都京都の文化遺産」として指定を受けました。当社の「世界文化遺産指定区域」は「後ろの木々の景観も含め境内地・建物すべて」です。 ・ 正面の二つのお山のお砂はなんのため? 拝殿前の砂で盛られた円錐形の小さな二つの山は「清め砂」といい、当社では八朔祭(9月1日)に氏子さんたちによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けます。 お正月、お祭等大切な日に際して、境内にまき散らし、境内地を「お清め」いたします。 当社での「清め砂」は、まさに境内地「お清め」の為のお砂であり、よく、他の社で見られる、神が降りられる依代(よりしろ)を表しているのではありません。 ・ 桐原水(きりはらすい)って湧き水なの?飲んでいいの? 湧き水ですが、もともと神社にお参りする為に手を清める為の「手水」として皆さんがお使いになられてますので、お飲みになられたい場合は、直接ではなく、一度沸かしてからお飲みください。 ・ 大きなご神木は何年たっているの? 拝殿右脇の大きな木は「ケヤキ」です。樹齢はおおよそ330年以上たっています。 ・ 本殿の右側に大きな石に小さな石がいっぱい積んであるのはなぜ? 下のおおきな石は昔、お社があった「社跡」の標です。上の小石は皆さんが各々お願い事をなさって積まれたものです。 ・ せっかくのおみくじ、結んで行かなくちやダメなの? おみくじは引く時に私の「いつの」「何を」神様に占っていただきたいのかを思い浮かべて引きます。その「いつの」が大事です。それが「来年1年の・・」なら「1年間」、「旅行中の・・」なら「旅行期間」、「今日の運勢」なら「今日中」は持っているのがよいのです。その期間が済んだら、近くの神社に結びに行きます。引いた神社に結ぱなけれぱいけない訳ではありません。 ・ 最後に!当社の境内に「宇治茶」の木が1だけあリます。
宇治神社
宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁 キリハラヒケタノミヤ)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられている。 応神天皇が稚郎子命を天位に任命するが稚郎子命は王仁(ワニ)博士から儒教の思想を学んでいたので兄の大鶴鷯命(オオサギノミコト 後の仁徳天皇)を差し置いて天位に就く事が儒教の思想(長子相続)と違ったため、稚郎子命は天位を兄の大鶴鷯命に譲りあいの後、死をもって節を全うした。 後に、兄の仁徳天皇は稚郎子命の宮居に祠を建て神霊を祀ったのが、この神社の始まりである。 ◆宇治の氏神様 幼い頃より聡明にして阿直岐や王仁博士について学門の道を極められ、我が国最初の文教の始祖であり、学業や受験合格の神様として崇められている。 ◆御本殿 鎌倉時代初期の建物で、三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮葺き(ひわだぶき)で御神像と共に国の重要文化財に指定されている。 ◆みかえり兎 御祭神「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」が河内の国から、この土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う「菟道稚郎子命」を正しい道へと案内し、お助けしました。この御由来のうさぎを当神社では「みかえり兎」と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。また、宇治と言う地名は、この云われよりついた名前ともいわれています。
三秀院
十輪寺(なりひら寺)
正法寺
愛宕神社(愛宕さん)
梅宮大社
祭神は酒解神(さかどけのかみ)、大若子神(おおわくこのかみ)、小若子神(こわくこのかみ)、酒解子神(さかどけみこのかみ)の四座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。 橘諸兄(もろえ)の母縣犬養三千代(あがたのいぬがいのみちよ)の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。 酒解神(大山祇神)(おおやまつのかみ)の御子酒解子神(木花咲耶姫命)(このはなさくやひめのみこと)は大若子神(瓊瓊杵尊)(ににぎのみこと)と一夜の契りでやがて小若子神(彦火火出見尊)(ひこほほでみのみこと)をお生みになった。 そこで姫は歓喜して狭名田(さなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造り、これを飲まれたという神話から当社は安産と造酒の神として古くから有名である。 現在本殿、拝殿、幣殿、廻廊、中門などがあるが、これらは元禄13年(1700)の再建になるものである。境内には大堰川の水がひかれ、池辺にはかきつばたや花菖蒲が多くあり、西方の梅林も美しい。 また、境内の砂は安産の民間信仰があり「またげ石」は、これを跨げば子供が授かると伝えられる。