浄光明寺

当寺は鎌倉市扇ケ谷字泉ケ谷の谷間に位し、泉谷山と号し真言宗。本山は皇室御菩提所として知られる京都東山泉涌寺。創建は建長三年(1251)で開基は武蔵守北条長時(幕府第六代の執権)、開山は真阿和尚(勅謚真聖国師)です。第二世は、永仁四年(1296)真阿和尚より当寺長老職を譲りうけた真了房、第三世は月航和上性仙房道空で、この人は律に秀でた学僧でした。第四世は智庵和上如仙房高慧で、当寺はこの時代に大いに発展しました。 即ち元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、華厳、天台、三論、法相の四箇の勧学院を建立し、学問の道場としての当時の基礎を築いています。又智庵和尚に対する足利尊氏、直義兄弟の帰依も厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進等が行なわれたことを書いた古文書が当寺に残っています。建武二年(1335)尊氏は、中先代の乱で鎌倉を追われた直義救援のため、勅許を得ずに東下し鎌倉に入りましたので、天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ関東へ下向させられました。苦悩に疲れた尊氏は近臣数名と共に、最も帰依していた智庵和尚のもとに参じ、箱根竹の下の戦に発向するまで、当寺にちつ居していました。第五世以後の住持については詳でありませんが、室町時代に入っても鎌倉御所の祈願所として、瑞泉寺殿(足利基氏)、永安寺殿(足利氏満)の分骨を納め、代々の鎌倉公方から寺領安堵を受け寺勢大いに振っていたようですが、鎌倉御所の滅亡と共に当寺も衰微し、その後文明、寛文の二回に亘って興隆されましたが、数度の天災、人災によって往時の栄華は殆んど失なわれました。諸堂の配置は、山門を入って右に不動堂、左は客殿、庫裡、石段を上って正面が本堂、その左に収蔵庫(重文阿弥陀三尊像県文矢拾地蔵菩薩像安置)、その奥が開山堂であります。本堂右手の山上に鎮守稲荷大明神の祠があります。 ◆浄光明寺仏殿(本堂)(市指定文化財) 浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺元喬僧都が母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文8年(1668)に再建されました。 元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊を収蔵庫に遷座されたことにともない、浄光明寺の本山である京都・泉涌寺仏殿に倣って三世仏を造像し、過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。 堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の坐像(向かって右)と開山・真阿和尚(真聖国師)の坐像(向かって左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した常滑窯の大甕(鎌倉時代)を置いています。 ちなみに、仏殿右横の石囲い内に建つ大五輪塔は、仏殿再建に資金を提供した元喬僧都の墓で、傍らにはその母親の墓も建てられています。 ◆(重要文化財)阿弥陀三尊像(中央阿弥陀如来、右観世音菩薩、左勢至菩薩) 正安元年(1299)頃の作。中世鎌倉地方彫刻の代表的作例で、中尊の依文に施された大形の土紋や、長く伸ばした爪、脇侍の姿勢、写実的な衣文のひだ、高く結いあげた宝髻等に宋朝美術の強い影響をうけたその特徴をあらわしています。 ◆(重要文化財)浄光明寺五輪塔(鎌倉時代)  寺の東方、多宝寺址の最奥にあり、多宝寺長老覚賢和尚の墓塔で、極楽寺の忍性塔、順忍塔とならぶ鎌倉の大型五輪塔の一つ。 ◆(県文化財)地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵) 南北朝期の作で、小像ながら衣文に施されたきり金文様や細部彫法に精巧な手法がうかがえます。足利直義の守本尊との伝説を持ち、右手に矢柄の錫杖を持っています。 ◆(史蹟)冷泉為相墓 背後の山上にあって宝筐印塔。為相は藤原定家の孫で、父為家の死後遺領細川庄の相続について異母兄為氏と争い、その訴訟のために関東へ下向した母阿仏尼のあとをしたって鎌倉に下り、藤ヶ谷(墓の西北の谷)に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。 ◆(市文化財)石造地蔵菩薩像 山上「やぐら」内に安置され正和二年(1313)の作、供養導師は三世性仙和尚。鎌倉の製作年代のはっきりした石仏として貴重なものです。 ◆(市文化財)愛染明王像 願行上人の作と伝えられ、元寇に際しての敵国降伏の大祈祷会の本尊といわれています。 ◆不動明王像(通称八阪不動) むかし京都八阪寺の五重塔が皇居の方に向って傾いたとき浄蔵貴所がこの像に祈って元にもどしたことから八阪不動明王と呼ばれていますが、室町時代の作。 ◆開山真聖国師像 禅宗の頂相彫刻の流れをくむ像で室町時代の作。 ◆開基北条長時像 開山像と同じく室町時代の作で、法体武人像として、鎌倉肖像彫刻の中で貴重な遺品。 ◆(市文化財)僧形八幡神画象 南北朝時代の作。弘法大師画像(室町時代)と二幅対をなしていて「互の御影」と称され、むかし両者対面の時、互にその姿を描いたものとの伝説があり、本地垂述思想に基いた仏画として高く評価されています。この地方では他に金沢称名寺のものがあります。 ◆三千仏画像 たて二米八十糎、よこ約二米一五糎の大幅で、中央に宋朝の三世仏を描き、周囲には二千数百体の小仏像を描く。南北朝時代の作。 ◆開山真聖国師画像 法衣をまとって、曲汞に腰をかけた通常の頂相画。室町時代。他に江戸時代の絵画が十数点あるが、中では仏涅槃図、冷泉為相画像等が見るべきものです。古文書は、尊氏、直義、持氏、義満等足利氏のものを初めとして、中世、近世のものなど数十通を伝えています。

安国論寺

日蓮聖人は、文応元年(1260)三十九才のお歳にこの御小庵で、かの有名な「立正安国論」をお書きになり、同年七月十六日前執権北条時頼に建白されました。そのため翌八月二十七日に大難は四度、小難は数々といわれた四大法難の最初、松葉ヶ谷焼打の御法難にあいました。 今も裏山に一時避難された南面窟が残っております。

上行寺

皮膚病、出来物、癌他にご利益があるといわれる瘡守稲荷があります。 瘡守稲荷のお堂に入ると、すべての病、特に癌に効があるとされる瘡守稲荷と身がわり鬼子母神が祀られている。瘡守稲荷の前に座ると、「薬王経石(やくおうきょうせき)」という大きな黒い石が置かれています。この薬石で患部をさすることで痛みや苦しみが楽になり、心の安らぎを得られるご利益があるそうです。(特に癌患部にご利益があるそう)。北条政子が源頼朝の「おでき」を治すため参拝したという話も伝えられています。

安養院

尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。 延宝8年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。

常栄寺(ぼたもち寺)

幕府に捕らわれた日蓮(にちれん)が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。 日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。 こじんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。

甘縄神明宮

和銅三年(710)8月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。 また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(1063)には当社を修復、永保元年(1081)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。 「吾妻鏡」によれば、伊勢別宮として源頼朝公が崇敬し、文治三年(1186)10月、社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建てている。また建久五年(1194)までに頼朝公は三度、政子の方は二度、実朝公は一度参詣している。 「相模風土記」には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治6年村社に列格された。明治20年5月、五社明神社を合祀し、明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和7年社号を甘縄神明神社と改称した。常には里人慣習で甘縄神明社宮と呼称している。 一、御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 伊邪那岐尊(白山) 倉稲魂命(稲荷) 武甕槌命(春日) 菅原道真公(玉神) 一、御由緒 和銅3年庚戌(かのえいぬ)年(西歴710年)染屋太郎大夫時忠の創建です。 永保元年辛酉(かのととり)年(西歴1081年)源義家公が社殿を再建されました。 源頼朝公、政子の方、實朝公など武家の崇敬が篤く、古来伊勢別宮と尊稱されている鎌倉で最も古い神社です。 社殿の裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と言い、古くから歌に読まれています。 源頼義は相模守として下向の節、当宮に祈願し、一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられています。 都にははや吹ぬらし鎌倉の             神輿ヶ崎 秋の初風

妙法寺

ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を非難したため草庵が焼き打ちされた『松葉ヶ谷の法難』の場所もこのあたりであるとの伝承があります。 のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。 護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。 ◆松葉谷妙法寺の縁起及び沿革 ◇当山は建長五年(1253)日蓮大聖人が安房より鎌倉に来られ、初めて松葉谷に草庵を結ばれた日蓮宗最初の精舎であります。そして、文応元年(1260)八月二十七日松葉谷法難にあわれる等、身延山に入山される迄二十数年にわたり大聖人が起居された霊蹟で、はじめ松葉谷御小庵と称しのち法華堂と号しました。 ◇四祖の日静上人の高弟、日叡上人は大塔宮護良親王の御子、幼名を楞厳丸(りようごんまる)と呼ぴ、仏門に入って楞厳法親王妙法房日叡と名のられたお方であります。 上人は父宮護良親王の亡くなつた所であり、日蓮大聖人に由縁深い鎌倉の地を慕って、松葉谷に来り延文二年(1357)御小庵の跡に堂塔伽藍を復興されました。そして楞厳丸(りようごんまる)の名にちなんで楞厳山妙法寺と称し、山頂に、父宮母官の墓を建てその冥福を祈られました。 ◇以来勅願寺となり日蓮宗の名刹として法燈がうけ継がれ、永正の頃十一世日澄上人は「日蓮上人註画讃」「法華啓運抄」等いく多の著書を著わし、学僧として世に知られました。 ◇化政期に及び三十二世日応上人、三十三世日慈上人は共に徳川光圀創建の水戸三昧堂檀林(さんまいどうだんりん)出身の傑僧でありましたが、寺門の興隆につとめ十一代将軍家斉及び奥女中、水戸徳川家、肥後細川家、加賀前田家、犬山成瀬家、紀伊徳川家及ぴ江戸市民の帰依を受け、日本最初の川施餓鬼を隅田川の永代橋上流水域で行ない、又しきりに江戸に出開帳を行ないました。 十一代将軍家斉またしばしば妙法寺に詣で、そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたと言われます。明治中期まで境内に将軍御成の間が存しました。 ◇貞和元年(1345)日静上人の代に足利尊氏のすすめもあり松葉谷より京都に移った法華堂が現在の京都大本山本圀寺であります。 ◆日蓮大聖人松葉ケ谷御小庵の旧蹟  鎌倉には最初の御小庵又は御草庵と称する寺が二・三ありますが、明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります。 ◆境内の堂塔 当山の伽藍配置はもと正面苔石段上に釈迦堂があり、総門・仁王門・釈迦堂を結ぶ線を中心として法華堂・鐘棲・奥の院・本堂・宝蔵・庫裡が展開する様式で、これは仏教の教主釈尊を信仰の中心と仰ぐ日蓮宗の教義を具現したものであります。  本堂 本尊は一塔両尊四師。文政年間肥後藩主細川家の建立。  法華堂 本尊は除厄祖師、日叡上人作。文化年間水戸家の建立。  奥の院御小庵趾 日蓮大聖人が通算二十年お住いになった所。  大覚殿 中央に釈尊、左に妙法稲荷大明神、右に熊本城天守閣にまつられていた清正公の尊像(細川家寄進)を安置。  御分骨塔 当山開山日蓮大聖人、二祖日朗上人、三祖日印上人、四祖日静上人の御供養塔。  護良親王御墓 後醍醐天皇第一二皇子。建武二年薨。御年二十八。  日叡上人御墓 当山五世。護良親王御遺子。 南の方御墓  日叡上人母君。藤原保藤の娘。新按察典侍。 ◆日蓮大聖人と白猿 文応元年8月27日の宵のこと御小庵で日蓮大聖人が夕べの読経をしておられますと、つと衣の袖をひくものがあります。何ごとかとご覧になりますと、それは一匹の白猿ではありませんか。猿はなおも大聖人の袖をひいていづこかへご案内しようといたします。猿のみちびくまゝに山中に分け入られますと、しばらくして小庵のかたで人々の、ののしりさわぐ音がいたします。 これは自分に危害を加えようとするくわだてがあって、猿が知らせてくれたにちがいない『礼の一言も・・・』ど思われてあたりを見廻すともう猿の姿はありません。 ふと近くには山王権現の祠があります。『猿は山王様のお使い』と聞いているが、今宵は自分を助けるために猿をおつかわしになったのかと思い、山王の祠に一礼し『法華経の行者は必ず天が之をたすける』とあるのはこのことであると、ますます不惜身命のお志をかためられたと伝えております。 ◆除厄生姜 文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷法難の際、宗祖日蓮大聖人が暴徒の襲撃をお猿畠にさけられた時、白猿か山中のしょうがを大聖人に捧げました。宗祖はこのしょうがを召し上って英気を養われお猿畠よりさらに下総に移られて無事に厄をのがれられたのであります。 以来当山では毎年松葉ヶ谷法難会(8月27日)、龍口法難会(9月12、13日)には御宝前にしょうがを供え『除厄しょうが』として一般参詣者にもこれを供養するならわしとなっております。このしようがを食して除厄を祈願すると身体健全、無病息災の果報が得られるので、当日は多数の善男善女が引きも切らずに参拝に集まります。 ◆妙法寺 松葉が谷楞厳山妙法寺といい、日蓮はここに御小庵を建て法華経(蓮のごとき正しい教え)を説いた。五世日叡の父は護良親王で、祖父は96代後醍醐天皇である。山上に護良親王の墓である。 ◆松葉ヶ谷御小庵跡 建長5年4月(1253)日蓮聖人は安房国清澄寺で日蓮宗を開き、同年夏鎌倉名越に来られ小庵を結び題目を高唱し、立正安国を力説し、文永8年9月(1271)まで布教伝導の拠点とされた庵の霊跡であります。 ◆護良親王 後醍醐天皇の皇太子 当山五世日叡上人の父君 建武の中興の成就に力を尽し、征夷大将軍となったが、のち鎌倉二階堂に幽閉され、建武2年(1335)7月23日波瀾万丈の生涯を終えられた。御年28才。