弘源寺

臨済宗・天龍寺塔頭。 永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川持之が、天龍寺開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建。 当時は広大な寺領を有したが、幾度かの火災に遭遇し、明治17年に末庵である維北軒と合寺した。 枯山水の「虎嘯の庭」、毘沙門天(重要文化財)を祀る毘沙門堂、竹内栖鳳とその一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉・小野竹喬ほか)の作品、また小倉山墓地には向井去来の墓と西行法師ゆかりの井戸などがある。 特別公開時のみ。

厭離庵

臨済宗天龍寺派の寺院。藤原定家の小倉山荘跡で、定家が百人一首を撰したところという。 のち荒廃し、江戸中期に令泉家が修復。霊元法皇から厭離庵の号を賜わる。 その後再び衰え、明治に入り復興。 書院のほか、茶席時雨亭、定家塚などがある。 (非公開)明治四十三年白木屋社長大村彦太郎氏が佛堂と庫裡を建立され山岡鉄舟氏の娘素心尼が住職され以後尼寺となる。 ■定家卿 見渡せは     花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの     秋のタ暮 駒とめて     袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの     雪の夕暮 鎌倉時代の歌聖、定家卿は応保二年(1162年)に生れ、仁治二年(1241年)八十歳にて歿す。父は俊成卿、兄は寂蓮法師、子は為家卿といづれも優れた歌人一族である。「新古今集」の撰者の一人として、また「小倉百人一首新勅撰和歌集」の撰者として、歌集「拾遺愚草三巻」に自撰の歌3652首が収められている。 定家は京極家、為家は冷泉家、孫の為氏は二条家、そして「十六夜日記」を誌した阿仏尼は為家卿の後妻にあたり、その子為相のために鎌倉へ直訴の道中誌を残している。 ■時雨亭 小倉山しくれの頃の     朝な朝な 昨日はうすき     四方の紅葉葉 六世常覚尼が茶道を志し、定家卿の御歌に因んで、定家卿の山荘「時雨亭」再興の意をふまえて、大正十二年茶席「時雨亭」は四帖向切、床は枡床、塗りがまち、書院窓に文机あり、桂離宮より模す。天井はよしの化粧天井で、広縁は苔寺の湘南亭を模し、屋根裏は傘を想わせ、情趣ゆたかである。 ■本堂 本尊上宮太子御作の如意輪観音、そして開山霊源禅師、西行法師、家隆卿、貫之卿の木像と定家卿、為家卿、為相卿の位牌を安置す。 ジェーン台風で倒壊した本堂は、「時雨亭」に於て茶会を催し、その浄財にて昭和28年に、これも岡田永斉の手によって再建される。 天井に描かれた"飛天"は東京芸術大学名誉教授西村公朝先生の筆。当時裏千家出入の数寄屋大工岡田永斉によって建てられる。 ■庭園 今は一般公開を断りて苔むす庭となり、七百余年、"柳の井"は今も清く湧き出ている。園内に映える楓樹は新緑、紅葉各々の季節を彩りて、京の名庭に数えられる。定家卿を偲ぶ五輸の塔、"定家塚"は静寂さをたたえている、その他楠の化石の橋や織部灯籠などが点在し、歌づくりの風情を漂よわせている。 藤原定家  小倉百人一首・編さんの庵 皇都西嵯峨、小倉山の麓なる厭離庵は京極黄門定家卿(藤原定家)が住みし山荘の旧跡で、小倉百人一首を編さんした処である。 その后、久しく荒廃せしを冷泉家が修復し、霊元法皇より、「厭離庵」の寺号を賜り、安永(1772年)より、臨済宗天龍寺派となり、開山は白隠禅師の高弟霊源禅師なり、男僧四代続いたが明治維新后、再び荒れ、明治43年、貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き、それ以后尼寺となる。 平成18年9月、男僧、玄果入山。

金蔵寺

山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老二年(718)、元正天皇の勅によって隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅額を賜り経典を書写して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山と号するに至ったと伝えられる。 また、隆豊禅師の開創に当たり、向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが「金蔵寺略縁起」に見えている。 平安時代以後、当寺は西山の名刹(めいさつ)として栄えたが、応仁の乱へと続く戦乱によって当寺の建物はすべて焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。 現在の建物は、元禄四年(1691)、将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたもので、本堂には十一面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊、勝軍地蔵像を移して祠っている。 このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下ろされる。

西明寺

槙尾(まきお)山と号し、真言宗大覚寺派の準別格本山である。 弘法大師の弟子智泉が開基し、鎌倉時代建治年中(1275~1277)和泉国槙尾山の自証上人が中興した。 その後衰微し現在の堂舎は元禄12年(1699)徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院と伝える清涼式釈迦像である。 この地を槙尾といい、上流の栂尾、下流の高雄とあわせ世に三尾と称し、いづれも紅葉の名所として知られる。 ◆由緒 西明寺は、古義真言宗に属し槇尾山と号す。高雄(尾)山・神護寺、栂尾山・高山寺と共に三尾の名刹の一つとして知られる。 古来から、清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を現している。 天長年間(824~834)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。 荒廃後、建治年間(1275~1278)に和泉国槇尾山寺の我法自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応3年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。 さらに、永禄年間(1558~70)に兵火にあって焼亡したが、慶長7年(1602)に明忍律師により再興された。 現在の本堂は、元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである。堂内には、唐様須弥壇上の本尊釈迦如来像(重要文化財)を始め、多数の仏像が安置されている。 ◆釈迦如来像 本堂正面の須弥壇上の厨子内に安置されている本尊で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られた立像である。清涼寺式釈迦如来像で生前の釈迦如来の面影を伝えていると云われており、重要文化財となっている。釈迦如来は二千五百年前に印度国に生まれ、仏教を創説された。その教えは、「万物は因、緑、果の法に従う。因、縁、果の法を見る時、正智を生ずる。正智を生ずる時、正しい生活が行われる。正しい生活が行われる時、苦しみ、悩みから救われ、ここに平安の光明が実現する。」と説いている。 ◆千手観世音菩薩像 本堂の脇陣に安置されており、平安時代に彫られ、重要文化財となっている。頭上に十面を戴き、宝冠をかぶり、合掌する真手を含め四十二手の千手観世音菩薩像である。細面で鼻筋が通った繊細な顔立ちをした立像である。慈悲の力を持って衆生の苦しみを救うと信仰されている。 ◆愛染明王像 本堂の脇陣に安置されており、鎌倉時代後期に慶派に連なる仏師によって彫られた明王像である。五鈷を戴く獅子冠を頭上に乗せ、三目を瞋らせ、開口して牙歯と舌先を現わし、六臂の各手に法具や弓箭等を執って坐っている、我宝自性上人の念持本尊で、愛の力を授かるとして古来から多くの人々に拝まれてきた。 ◆本堂 元禄十三年(1700)に五代将軍徳川綱吉の生母母桂昌院の寄進により再建された。桁行七間、梁行四間で、内部は梁行に三分されている。中央間が内陣で、後方に四天柱を建て、逆蓮擬宝珠付きの唐様須弥壇には厨子が奉安されている。両横の脇陣が外陣の役割を果たしており、真言宗寺院の本堂としては特異な平面である点に特色がみられる。正面入口の梁上に「霊山鷲心」の額が掲げられている。 ◆客殿 本堂の左方に接近して建ち、本堂左後方と短い渡廊下で結ばれている。造営は本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。前列二室、後列三室からなり、前列南室には、慶長および元和年間に三度にわたって制定された九ケ条からなる「平等心王院僧制」木札が掲げられている。 ◆表門 一間薬医門で、本堂と同じ元禄十三年(1700)の造営になり、西明寺の元禄造営の一連の建造物として貴重である。 ◆智泉大徳 延暦八年(789)に讃岐国に生れ、姓は菅原氏、母は阿刀氏で弘法大師の甥にあたる。九歳の時、弘法大師に従い弟子となり、大師をして「密教の事は智泉に任す。」と云われるほど聡明であった。天長二年(825)、病にて高野山で寂す。弘法大師は痛く之を慟哭し、自ら文を草したと云われる。 ◆我宝自性上人 姓は詳ならず、字は自性で、世に自性上人と尊称された。徳行高邁、博く顕密の学に通じ、学徒雲集せり。上人の教義として「生活に直結する信仰」が唱導された。即ち、花を供えては「忍耐」の徳を養い、線香を供えては「努力・精進」の徳を省み、水を供えては自他共に潤う「施し」の徳を、御飯を供えては精神の食糧たる「禅定静心」の徳を養うのが肝要である。上人の和歌に、「白露のおのが姿をそのままに紅葉にわけば紅の玉」(一座行法肝要記)がある。 ◆明忍律師 天正四年(1576)に京都に生れ、姓は中原氏、字は俊正、少内記康雄の次子である。七歳の時、高雄山の晋海僧正に従い弟子となり、内外の諸典を学んだ。慶長十五年(1610)、対馬にて病を得て寂す。律師の「自誓得戒の教え」に桂昌院帰依されて、現在の本堂を寄進された。その教えによれば、誠心を持って神仏の前で誓を立てれば、神仏の加護する力と自分の努力する力とで始めて生活に規律(戒)が立ってくるのである。

東林院

妙心寺山内。本堂前庭は、十数本の沙羅双樹からなる「沙羅林」で、見頃になると青苔に落花の風情が楽しめる。 6月15日から30日まで「沙羅の花を愛でる会」で特別公開され、お抹茶と精進料理が賞味できる。 ふだんは非公開。

妙心寺 大心院

妙心寺塔頭。1492年(明応1)細川政元が景堂和尚を開山として創建。 本堂の南庭は‘切石の庭’と呼ばれる。 大書院前の‘阿吽(あうん)庭’は枯山水庭園で、白砂、奇岩、苔で竜がまさに天に昇ろうとする姿を表現しているという。 ◆由緒 当院は文明11年(1479)足利幕府の管領・細川政元が景堂和尚に帰依して上京区大心院町に建立した寺です。天正年中に細川幽斎の熱意と尽力により妙心寺に移建・中興されました。この中興により当院の妙心寺塔頭としての発展の基盤が確立しました。続いての子の細川三斎(忠興)も当院の外護に努められました。 現在も本堂(方丈)は蒲生氏郷の孫である忠知が大心院第七世嶺南崇六(東京 東禅寺開山)に帰依して建立されたものです。当院はその後、時代を経るに従い衰えました。 当院の所蔵するものには李龍眠の羅漢図(鎌倉期 重文)一幅、友清の白衣観音一幅、小栗宗丹の中国故事人物図三幅(旧国宝)等があります。 ◆阿吽庭 阿吽庭というのは通称であり、正しくは方丈東庭といい、石で仏、菩薩を象徴した第二の本堂です。本堂の東、書院(旦過寮・宿坊)の南にあり、東西に長く、南北にやや狭く、長方形の地割で作られています。東南隅に築山を設け苔地とし、三尊手法による石組を中心として左右に数個の石を配し、築山の下部には州浜型の曲線によって白砂面に変化をもたせています。築山部には多数の樹木を用い伝統的な作風の風韻温雅な点が見どころです。苔と白砂との陰陽、五色、十七個の岩との調和も鮮やかな、第二の本堂として拝する庭です。

麟祥院

妙心寺塔頭で、本坊の北方に位置する。 徳川家光が創建。方丈に海北友雪筆の水墨襖絵雲龍図がある。 特別公開時のみ。 1634年(寛永11)の創建で、春日局を開基、碧翁愚完を開祖とする。 春日局は明智光秀の武将斉藤利三の娘でお福と称し、稲葉正成の妻となり、徳川家光の乳母となり、家光が将軍となると大奥第一の権威を誇った。 霊屋内陣に安置する春日局木像は小堀遠州作と伝える。 墓地には稲葉家の墓のほか、新陰流2世柳生石舟斎宗厳の孫、3世兵庫助長厳の墓もある

地蔵院(竹の寺)

衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵、又は、竹の寺とも呼ばれている。 この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。 宗鏡は、恩師夢窓(むそう)国師を開山に請じて、自らは第2世となった。 以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失してしまった。 その後、江戸時代の宝永元年(1704)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。 現在の本堂(地蔵堂)は、昭和10年(1935)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。 また、方丈前には、「十六羅漢の庭(じゅうろくらかんのにわ)」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。 ◆一休禅師と地蔵院 当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺である。禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家でお生れになったといわれている。後、当院で成長され、6才の時安国寺に移って本格的な修行に入られた。 その間のことは、禅師の弟子である済岳紹派の筆記になる『祖先詩偈』という本に「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかである。禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺にも住されたが、晩年は山城薪(今の京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)88才で示寂された。 ◆禅宗について 禅宗は中国におこった仏教の一宗派で、達磨(だるま)大師(530年代寂)を初祖と仰いでいる。その真精神は、教外別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに坐禅を修して、人間に本来そなわっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした自由の境地に安住することが釈尊の説いた仏法を正しく受けつぐことであると説くところにある。今日のわが国の禅宗は臨済・曹洞・黄檗の三宗であるが、隠元禅師によって伝えられた黄檗禅は臨済禅の一種である。 ◆地蔵院の由緒 当山は衣笠山地蔵院といい、臨済禅宗の寺で、夢窓国師を開山とし、伝教大師の作といわれる延命安産の地蔵菩薩を本尊としている。もともと、この地は今から七百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良公が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之公が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立された。これが現在の地蔵院で、宗鏡禅師は恩師夢窓国師を開山に仰ぎ、自らは第二世となられた。その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26力寺、諸国に領地54カ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)にあい諸堂悉く灰燼となった。 しかし、皇室の深恩と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には本尊の地蔵菩薩を中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之公の各木像を安置し、本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。現方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、十六羅漢の庭とよばれ、宗鏡禅師の作、頼之公の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、十六羅漢の修行の姿を表わしており、石の一つ一つは羅漢を意味している。また、境内は、京都市の文化財環境保全地区に指定されている。 羅漢とは、智恵の力をもって悩みをなくし正覚に達すること、又は智恵を得、悟を開いて世人から供養を受けるに足る聖者をいう。この羅漢に十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢の種類があり、当院の羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後) に少しずつ傾いている。  尚、当院に伝わる地蔵院十境の名称を挙げると次の通りである。  金剛界門  衣笠山 来鳳軒 枯木堂 観音殿  地蔵宝殿  尺竜谷 尸陀株 不動井 興雲洞 当山の開基細川頼之公は、元徳元年(1329)三河国(今の愛知県)に生れ、貞治6年将軍足利義満公を補佐して管領職となり、政治の暇に宗鏡禅師に参禅し同年当院を建立された。後、武蔵守となり、南北両朝の和合に尽力された。頼之公の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、人のよく知る処である。明徳3年(1392)64才で亡くなり、墓は細川石とよばれ当院の境内にある。

檀林寺

嵯峨天皇の后橘嘉智子(檀林皇后)が815年(弘仁6)に建立。12の塔頭・子院をもち、平安初期の仏教文化の一中心地であったが、後年廃絶。 1964年(昭和39)、現在地に再建された。 本堂と霊宝館には皇后ゆかりの遺品をはじめ、日本と中国の仏教美術品を展示。真言宗。