大悲閣 千光寺

正しくは、嵐山大悲閣千光寺(せんこうじ)と号する禅宗の寺である。 当寺は、慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立した寺院である。 了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開鑿(かいさく)し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたといわれている。 本堂には、了以の念持仏であった本尊の千手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。 境内には、了以の子、素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石がある。 嵐山渡月橋から大堰川の右岸を約1km上流に上りますと、大悲閣千光寺にあがる参道の石段が見えてきます。そして、その石段を登ると、嵐山中腹に位置する千光寺に至ります。山門を潜り鐘楼の脇を上がると展望台に出ます。山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺と言い、当初は天台宗、文化五年以降は黄檗宗となり、本尊は恵心僧都作と伝える千手観音です。千光寺は、もと清涼寺の西方中院にあって、後嵯峨天皇の祈願所でしたが長らく衰退していました。 慶長十一年(1606)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が同十九年に現在地へ移し、大悲閣を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山としました。了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に大?を迎えて再興したとき、寺は黄檗宗となりました。 ※ 川の流れの方向(下流側)をみて右側が右岸、左側が左岸です。 ◆由緒 大悲閣は禅宗寺院で、大堰川(保津川)の右岸を、渡月橋から溯って、約1kmの嵐山温泉から、さらにつづら折りの石段を登りつめた、山の中腹にあります。 角倉了以(1554-1614)が、河川開鑿工事に協力した人々の菩提を弔うため、嵯峨中院にあった、千光寺の名跡を移して、創建したものです。 角倉了以は大堰川、富士川、天竜川、高瀬川などの、河川開発工事を行い、また豊臣秀吉より、続いて徳川家康よりも朱印状を得て、海外貿易を行いました。 晩年は、この大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)7月、61歳で亡くなりました。 本尊の千手観世音菩薩は、恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられ、了以の念持仏でした。  なお、大悲閣とは、観世音菩薩像を安置した仏堂を言いますが、特に、この千光寺の事です。  了以の像は、法衣姿で石割斧を持ち、片膝を立てて太綱の上に座し、今も川の安全を見守っています。  遠く比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、麓には、京都市街を一望する景色は、了以も愛し、皆さまにも四季折々に楽しんで頂ける、絶景といえましょう。  また、了以の嫡子素庵(1571-1632)は、父に協力し、実務に従事、業績を挙げるかたわら、儒学者、芸術家としても活躍し、嵯峨本の製作者としても有名です。  さらに、角倉一族のひとり吉田光由(1598-1672)は、わが国最初の算術書「塵劫記」を著し、その改訂版、類書等は明治時代まで続くベストセラーとなりました。  この為、この千光寺は、そろばん上達の寺とも呼ばれてきました。最近では、数学、理系上達の寺としても有名です。 ◆夢窓疎石国師の座禅石 夢窓疎石(むそうそせき)が座禅を組んだといわれる ◆桂川 桂川は、亀岡市中域から嵐山あたりまでは保津川(ほづがわ)、嵐山公園あたりは大堰川(おおいがわ)、嵐山を出ると桂川と名を変える。

春光院

妙心寺塔頭。妙心寺本坊の北西にある。 1590年(天正18)豊臣三中老のひとり堀尾吉晴が長男金助の菩提を弔うために創建。 開祖は妙心寺113世猷景嘉。 初め、俊巌院と号したが、堀尾氏断絶後、姻戚の石川氏が檀越となり、1636年(寛永13)春光院と改称。南蛮寺鐘、絹本着色東方朔奪桃図(重文)などを所蔵。(非公開) 海外からの訪日観光客や留学生専門の宿坊と英語による座禅会を行っております。

薬師寺

平安初期の818年(弘仁9)、世に蔓延する悪病を憂慮した嵯峨天皇が、弘法大師に薬師如来の彫刻を命じた。 この像が本尊の薬師如来坐像である。 嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺に属していたが、明治時代以降、浄土宗知恩院派に属し、清凉寺の境内塔頭となっている。 寺宝に嵯峨天皇像、阿弥陀三尊像などを伝え、もとこの寺の付近にあった福生寺の遺仏と伝える地蔵菩薩像や小野篁像を安置している。「生六道(しょうのろくどう)」と称された福正寺は、小野篁が冥土から帰り着いたところと伝え、その出口という7基の井戸が発掘された。 ただしこの井戸は間もなく埋め戻され、宅地となっている。

天球院

妙心寺塔頭。 1631年(寛永8)岡山藩主池田光政が伯母天球院のため建立。 開山は江山景巴。本堂(重文)は玄関をつけた大型方丈形式で、江戸時代方丈建築の典型とされている。 内部の襖絵と杉戸絵あわせて152面(重文)は、狩野山楽・山雪の作といわれる。禅寺に珍しい金碧画「竹虎図」「梅の遊禽図」などが有名。 (非公開)建立:1631(寛永8)年 ◆由緒 妙心寺の塔頭寺院で、姫路城主・池田輝政公の妹・天球院殿によって創建された。 方丈(重文)は、玄関とともに江戸時代を代表する禅宗方丈建築で、方丈内部を飾る華麗な障壁画(重文・一部高精細複製品)は、京狩野の絵師・狩野山楽・山雪の代表作として名高い。 「竹虎図」、「梅に遊禽図」、朝顔と鉄線の花を描いた「籬草花図」など、金地に映える鮮やかで濃密な色彩と垂直の線や曲線を活かした画面構成が見事な金碧障壁画で、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている。

滝口寺

法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺の旧跡。 「平家物語」の平重盛の家来斎藤時頼と建礼門院の侍女横笛との悲恋の物語ゆかりの地として近年再興された。 出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置。 参道の歌碑は横笛が記したとされる。浄土宗。

妙心寺 隣華院

妙心寺塔頭。1599年(慶長4)、脇坂安治が南化玄興を開山に迎えて創建。 客殿には長谷川等伯筆の山水図襖(重要文化財)・狩野永岳筆の西園雅集図襖(市指定文化財)などがある。 また豊臣棄丸像(重要文化財)を所蔵する。特別公開時のみ。 ・墓地には上杉景勝室・菊姫の墓もある。 ・写経の集い、坐禅の集いも催されている

東海庵

文明16年(1484)の開創で、斎藤越前守利国の室利貞尼が、悟渓和尚を請じて建立した。 妙心寺四派本庵の一つである。 悟渓は尾張の人、雪江門下の高僧で、教を東海道にひろめ後に東海派の祖といわれた。 書院庭園は西庭(史跡名勝)と南庭からなり、西庭は三神仙島一連の庭を枯山水で表現したもので東睦和尚が文化11年(1814)に作庭した。 南庭は白砂を敷き大小7個の庭石を配置した特色ある庭園である。 また、方丈の南にある庭は一面に白砂を敷き雨落ちの中に棗(なつめ)形の手水鉢を置いたのみの清淨感あふれる庭である。 寺宝に狩野元信筆といわれる水墨の瀟湘八景図・絹本著色十六羅漢像(いづれも重要文化財)等がある。

宝泉寺

宝泉寺さくらまつりが春に催される。 「まんぷくバザー」(地元の野菜やぜんざい、おでん、桜寿司、草餅など100円均一)や、四国八十八カ所霊場お砂ふみ巡拝(無料)、秘法お砂灸(無料)、写経体験(お供え料1,000円)など。